屋敷主と屋守

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本来百姓地である抱屋敷は、通常、屋守によって維持管理される。①旗本久貝正方(くがいまさかた)が百姓八兵衛(はちべえ)を屋守に仕付けた請状と(史料集一三、三七〇頁)、②上遠野平右衛門(かとおのへいえもん)が八郎右衛門(はちろうえもん)・惣左衛門(そうざえもん)・四郎兵衛(しろべえ)の三名に下屋敷を請負わせることを定めた覚え書きから、屋敷主と屋守がどのような関係を結んでいたのかを検討したい(史料集一三、三六九頁)。
 ①の請状では、公儀(こうぎ)の法度と村掟(むらおきて)を遵守(じゅんしゅ)すること、小川寺(しょうせんじ)の檀家となるなど、通常の入村請書(にゅうそんうけがき)と同様の事柄を誓約する一方、屋守として「御屋鋪竹木下草(したくさ)等迄大切(たいせつ)に相守(あいまも)」ることが記されている。②では、年貢や宿継場(しゅくつぎば)としての馬役(うまやく)を勤める一方、「江戸御屋敷への御役馬(やくうま)」を年間五〇疋(びき)勤め、そのほか、「小川村御下屋敷五軒分の夫役」を勤め、「御馬沓藁(くつわら)代」を六貫文出すことが定められている。そして、これらの諸役を勤めることと引き替えに、「江戸御屋敷の掃除残らず下され」「御下屋敷の萱(かや)残らず下され」「御屋敷の内畑共残らず此者共(このものども)に御作らせ」と、江戸屋敷の肥料(大小便)を汲(く)み取る権利と、小川村の抱屋敷の萱を刈る権利、抱屋敷の畑の耕作権をえることが記されている。そして、抱屋敷の竹木まで大切に守ることが記されている。
 屋守がえられる権利としてはそのほか、抱屋敷内の一町五反歩~二町歩ほどを、無年貢で耕作することができたという(史料集一三、三九四頁)。

図2-68 「小川御下屋敷御請負之覚」
元禄7年7月(史料集13、p.369)