抱屋敷の近親間での売買

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小川村の抱屋敷で最も特徴的なのが、武家間での売買、特に縁戚間での売買や相続分与である。表2-34では、①河村家(かわむらけ)→石丸家(いしまるけ)(no.4/no.24/no.25)②河村家→三宅家(みやけけ)(no.8/no.26)③富田家(とみたけ)→岩根家(いわねけ)(no.12/no.13)④岩根家→久貝家(くがいけ)(no.13/no.20)⑤曾我家(そがけ)→三宅家(no.21/no.40)⑥河村家→清水(しみず)・角田家(no.34/no.23)⑦河村家→榊原家(さかきばらけ)(no.39/no.22)の七件の武家間での売買が確認できるが、うち、①②⑦の三件は縁戚間での売買である。以下、売買・譲渡の様子を確認していきたい。
 先述したとおり、小川村に抱屋敷を所持した武家は、河村・三宅家を中心に、密接な縁戚関係を結んでいた。松平加賀守(まつだいらかがのかみ)(加賀藩)内河村三左衛門(さんざえもん)が小川村に所持していた二軒の抱屋敷は、旗本三宅秀明(善十郎・平蔵(ひであき(ぜんじゅうろう・へいぞう))へ譲渡されるが、図2-67によれば、三宅は河村三左衛門の実子であり、三宅家の養子となって享保三年一〇月一九日(一七一八)に家を継いでいる。すなわち、この二軒の抱屋敷は、河村家から三宅家への養子入りに際して譲渡されたのである。また、図2-67にあるように、この養子入り以前より三宅家と河村家は密接な縁戚関係にあった。さらに、この抱屋敷は三宅家から小川村へ「遠方諸事不勝手(ふかって)に付き」との理由で、譲渡から一年にも満たない享保五年三月に小川村に返進され、「発反(ほったん)より只今迄(ただいままで)屋鋪畑(はた)取り立て候入用金(にゅうようきん)」として六〇両が、小川村より三宅家に差し出されている(史料集一三、三八三頁)。
 抱屋敷の武家間での売買については、資産価値の上昇という点も重要である。伊奈半左衛門(いなはんざえもん)家臣で旗本の富田七左衛門(しちざえもん)所持の間口一二間の抱屋敷は、寛文九年(一六六九)に旗本本多大膳(ほんだだいぜん)家臣の岩根三郎兵衛(いわねさぶろべえ)に五両で売却されている。その後、この抱屋敷は天和二年(一六八二)に旗本久貝正方に一〇両で売却されている。そして、久貝は元禄八年(一六九五)に、この抱屋敷を五〇両で小川村名主へ売却している。すなわち、最初の本検地を行った寛文九年に五両だった抱屋敷は、そののち資産価値を増加させ、二六年後、さらに三度の検地をへた元禄八年には、一〇倍の五〇両の価値を持つにいたったのである。久貝はのちに勘定奉行に栄進するなど出世を遂げ、宝永元年(一七〇四)に、江戸場末の高田村(たかだむら)(現新宿区)に抱屋敷を取得している(原田佳伸「村の中の武家地」)。
 武家にとっての抱屋敷の価値を考える場合、その値段も重要である。小川村の抱屋敷と先行研究で紹介されている江戸場末地域の角筈村(つのはずむら)や戸塚村(とつかむら)(現新宿区)の抱屋敷を比較すると、寛文年間(一六六一~七三)で二〇倍程度、元禄宝永年間(一六八八~一七〇四)で一三倍ほど、近世後期で一四倍ほどと、いずれも一〇倍以上の差があった(三野行徳「新田開発と武家抱屋敷」)。開発期の小川村に取得した抱屋敷は、開発の進展と共にその価値を増していくが、一方で、取得され始めた開発期以来、江戸場末の抱屋敷と比較すれば一割にも満たない値段であり、このことが、江戸以外に居住地を持たず、避災地や江戸屋敷での生活物資を必要とする小身の旗本達が、こぞって小川村に抱屋敷を取得していった理由と考えられる。