開発期を中心に取得された小川村の抱屋敷は、寛文年間(一六六一~七三)から享保年間(一七一六~三六)にかけて、縁戚間を中心に盛んに売買され、貞享期を境に、小川村名主や屋守への譲渡や返進という形で手放されていく。武家が抱屋敷を手放す理由は、「遠方故曾(えんぽうゆえかつ)て用所(ようどころ)これ無く」「遠方にて此方用事(このかたようじ)達し申す儀もこれ無く」「遠方故□(欠損)役等も勤め難(つとめがた)く」「遠方故勝手悪敷(かってあし)く」「遠方にて勝手悪敷く」「遠方故諸事不勝手(しょじふかって)にて御年貢役儀(やくぎ)等相(あい)勤め難く」と、江戸から遠方なため、抱屋敷としての役に立たない、年貢諸役を勤めるのが困難であるなどである。小川村は、青梅街道沿いの宿継場(しゅくつぎば)として、村落の無かった田無村(たなしむら)と箱根ケ崎村(はこねがさきむら)との間に開発されたが、日本橋から七里と遠方であり、江戸場末の抱屋敷と違い、日常に用いるのは困難だったのである。
このように、開発が始まった明暦二年(一六五六)より一〇軒ほどの抱屋敷が存在し、延宝~元禄期(一六七三~一七〇四)にかけて、新規に所有するものと手放すもの、武家間で譲渡するものなど盛んな売買があり、貞享頃を境に、以降相次いで手放され、享保元年には八軒、宝暦年間(一七五一~六四)には二軒、天保年間(一八三〇~四四)には榊原家の所持する一軒を残すのみとなり、その一軒は明治五年(一八七二)に屋守に売却される。
図2-69 天保期の榊原家抱屋敷
天保6年11月(史料集13、p404)