一七世紀の新田開発と抱屋敷

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小川村の開発は明暦の大火の一年前に開始されており、江戸における抱屋敷需要が高まるなかで、小身の武家にとっては、開発期の比較的土地が手に入りやすい状況と、江戸近郊に比べて格段に安い値段で手に入れられることなどを要因に、河村家縁戚を中心とする多くの旗本達が、小川村に抱屋敷を買い求めた。江戸から七里と遠方ではあるが、青梅街道沿いの村で、すでに成立している村落とは違い、これから土地に人を割り付けていく段階であることも大きく作用したと考えられる。村側にとっても、入村者を集めなくてはならない時期にあって、武家が年貢を払う、保証性の高い入村者をえることができるメリットがあったのであろう。すなわち、小川村武家抱屋敷成立の要因は、江戸開府による江戸周辺地域の再編(街道・上水整備、新田開発)、明暦の大火にともなう江戸の都市計画、という状況を背景に、避災地の確保(下屋敷)、資本の投下(地代・開発)などを求める小身の武家が開発地に権利をえることによって、多くの武家が地主である年貢地-抱屋敷-が小川村に成立したのである。村にとっては、武家-屋守による開発と農業経営、武家による困窮百姓に対する資本投下(抱屋敷購入-屋守化)は、開発期の不安定な村への資本注入となって開発をより確かにするものであり、名主から積極的に開発地が割り渡された。以上の一七世紀中葉の江戸周辺地域固有の状況のもと、小川村には確認されるだけで四一軒もの抱屋敷が成立したのである。
 武家にとっての小川村に抱屋敷をもつメリットは、江戸場末と同様、避災地・下屋敷・蔬菜材木類の供給といったことに加え、売買の様相からは、投機的要因もあったと考えられる。抱屋敷は武家間や武家近親間で盛んに売買される。その価格は江戸場末に比べると一割未満と格安ではあるが、抱屋敷としての利用価値がなくなっても資産的価値はあり、武家間で売買され、また縁戚間での資産譲渡が盛んに行われていた。
 小川村抱屋敷では、通常の抱屋敷としての機能のみならず、開発地に土地を取得し武家自身が開発の当事者となる、江戸の奉公人や浪人など由縁のものを抱屋敷に仕付けて屋守としていくなど、抱屋敷を通じて、江戸の武家も小川村の開発にかかわっていたのである。一七世紀の多摩地域の新田開発には、吉祥寺村(きちじょうじむら)(現武蔵野市)や連雀村(れんじゃくむら)(現三鷹市)、西久保村(にしくぼむら)(現武蔵野市)など、江戸の浪人・町人が移住して開発に従事したことが知られており、また小川村の隣村で玉川上水から野火止用水(のびどめようすい)を引くことによって成立した野火止村では、川越藩(かわごえはん)が下級藩士や足軽を仕付け、屋敷と手作(てづく)り地を中心に開発を進めたことが知られているなど、断片的ではあるが、一七世紀の新田開発に江戸の武家が関わっていた痕跡がある。従来、一七世紀の多摩地域の新田開発には、新町村(しんまちむら)(吉野織部助(よしのおりべのすけ))、砂川村(村野三右衛門(むらのさんえもん))、小川村(小川九郎兵衛)、関前村(せきまえむら)(井口八郎右衛門(はちろうえもん))、牟礼村(むれむら)(高橋家)など、旧北条家臣と呼ばれるいわゆる土豪層が土着し、あらたな開発地を求めて行くなかで理解されてきた。小川村の抱屋敷は、一七世紀の江戸を中心とした多摩地域の変容のなかで、江戸の武家も新田開発に関わる側面を示しているのである。