尾張家鷹場の維持管理-鷹場預り案内役-

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三代将軍徳川家光は、江戸を中心とした五里四方の地域を将軍家の鷹場(たかば)とし、その外延(がいえん)の約五里の地域を、御三家(水戸・尾張・紀伊(ごさんけ(みと・おわり・きい))の鷹場に設定した(第一章第四節)。「鷹場」とは鷹狩りをする場所であるが、実際には、鷹狩りを実施し、環境を保全するためにさまざまな規制と負担を受ける(面としての)地域のことを指していた。小平市域は御三家尾張徳川家の鷹場に指定されており、尾張徳川家戸山屋敷(とやまやしき)(現新宿区)の鷹野役所(たかのやくしょ)と、立川陣屋(たちかわじんや)(現立川市)・下保谷陣屋(現西東京市)・水子陣屋(現埼玉県富士見市)の鷹場役人の支配を受けていた。鷹場の支配を担うのは、尾張藩士の鷹匠(たかじょう)と鳥見(とりみ)であるが、鷹匠は一・二名、鳥見は八名程度である一方、尾張家鷹場は、宝暦三年(一七五三)で一八〇か村あり(史料集二一、四頁)、規制の内容は日常生活の細部に及んでいたため、より地域の事情に知悉(ちしつ)した人びとが実務を担う必要があった。そこで尾張家では、寛永一五年(一六三八)に鷹場を拝領するとすぐに、郷士(ごうし)三家を「御鷹場預(おたかばあずかり)」に取り立て、鷹場支配の実務にあたらせた(第一章第四節)。このとき鷹場預りに任じられた三家は、いずれも旧北条(ほうじょう)家臣や小代官(こだいかん)など、中世に武士だった由緒を持ち、兵農分離の過程で地域に土着した土豪たちである。これらの階層の人びとは、兵農分離によって「農」であることを強いられる一方、経済力と人脈を持ち、新田開発を主導するなどにより、地域のなかで有力な地位を保ち続け、また、こうして一時的な武士身分を獲得することにより、地域のなかの武士=「御用」を請け負う人びととなって、特権的な地位を保持し続けようとするのである。
 尾張家鷹場は生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)によっていったん廃止されるが、享保改革により復活することになる。鷹場復活当初は「先年の通り」ということで、以前に鷹場預りを担当していた水子村(みずこむら)高橋孫三郎(たかはしまごさぶろう)・岸村村野九郎右衛門(むらのくろうえもん)・羽村坂本伊織(さかもといおり)・田無村下田孫右衛門(しもだまごえもん)・下清戸村(しもきよとむら)粕谷右馬之助(かすやうまのすけ)の五名が再び鷹場預り案内役(たかばあずかりあんないやく)となる。そして、享保一六年(一七三一)に下田孫右衛門に代わって案内役に就任したのが、もと小川村名主で、小川新田の開発名主となっていた小川弥市(おがわやいち)(弥一郎)である。以後、小川村小川家では、弥市の三代後の名主小川弥次郎(東吾(おがわやじろう(とうご))が宝暦九年(一七五九)に村山祐蔵(むらやまゆうぞう)の跡役(あとやく)となり、天明六年(一七八一)からは、その子弥四郎(やしろう)も見習となり、享和三年には弥四郎が弥次郎の後を継いで案内役並役(あんないやくなみやく)となるなど、文化一一年(一八一四)までは鷹場預り案内役を勤めている。
小川家尾張家鷹場預り案内
図2-70 小川家尾張家鷹場預り案内役関係系図

 また、小平市域では、大沼田新田名主の當麻弥左衛門(たいまやざえもん)家でも、文政元年(一八一八)に當麻弥左衛門輝国が鷹場預り案内格(たかばあずかりあんないかく)に就任し、以後、少なくとも文久三年(一八六三)まで、代々鷹場預り案内役を勤めている。このように、小平市域の村々では、小川村・小川新田・大沼田新田の名主家が、一方で、尾張家から、鷹場の維持管理を管轄する尾張家鷹場預り案内役に任じられ、尾張家から「御用」を請け負っていたのである。
 案内役の職務は、主に①鷹場村々を預かって鷹場合札(たかばごうさつ)を村々の名主に渡す②鉄砲で狩りをする者を監視し、鷹場内で狩りをしないように村々から証文を取って管理する③鳥見衆の経費支払いの通知④境杭(さかいぐい)の見廻りの四点になる(史料集二二集)。特に①については、小川東吾は寛政四年(一七九二)に小川村・小川新田を含めた計五三カ村を管轄し、當麻弥左衛門は天保一二年(一八四二)に一〇か村を管轄するなど、時期によって違いはあるものの、一〇から数十か村に対し合札を渡すと共に、村の日常生活に関わる規制・負担を行う当事者となるわけである(第一章第四節)。