案内役の身分と格式

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しかし、身分としては同じ百姓であるはずの案内役たちが、他村の村人に対し規制・負担を強いるためには、武士としての身分と格式を帯びる必要があった。少なくとも案内役を勤めている時間は、尾張家から扶持を支給され、尾張家から苗字帯刀を許可された尾張家の武士として、管轄している村々に指示を出すわけである。したがって、案内役から管轄村々に出された触書では、案内役は苗字を記している。ここに、一時的な百姓身分からの離脱-武士身分の獲得が見られるのである。
 武士としてのコード(苗字帯刀)を身につけた者は、他者や他村に対して負担や規制を強いることが出来る、という近世社会の考え方を「役威(やくい)」といい、一時的に「役威」を纏(まと)うことによって、「御用」を請け負った百姓が他の百姓を管轄することが可能になるのである。ただし、この役威をめぐってはさまざまな思惑が交錯することになる。たとえば、文化一一年(一八一四)に出された、案内役の身分に関わる嘆願では、「身分お取り扱いの儀は…村々支配の役人中へも掛け合い等仕り候儀も御座有(ござあ)るべく候間、私共御役儀(おやくぎ)仰せ付けられ候旨 御公儀(ごこうぎ)へお達し成し下し置かれず候ては、御屋形(おやかた)様御手切(おてぎ)りの事に存じ、表立(おもてだ)ち候儀には御座無く候…万事不都合の筋存知(すじぞんじ)奉り候…」と、案内役の身分が尾張家との間でのみ周知されており、幕府公認ではないため、管轄している村々との間でも不都合があると述べている(史料集二一、二一五頁)。案内役として管轄する村々は当然尾張藩領ではなく、幕領・旗本領・寺社領・藩領などが入り組んでおり、村人たちは案内役を軽いものだと心得違いをして、言うことを聞かないというのである。この嘆願では続けて、同じ御三家の紀伊(きい)徳川家の鷹場では、「山廻(やままわ)り」と呼ばれるものが同様の職務を勤めており、山廻りの場合、藩主にお目見えの身分であり、苗字帯刀に加え、熨斗目肩衣(のしめかたぎぬ)(武士の礼装)の着用を許され、幕府にも公認であるとの例を紹介し、自分たちも同様に幕府公認の身分となり、熨斗目肩衣の着用を許されれば、「御鷹場村々にて取り用(もち)い方も宜(よろ)しく、殊(こと)に村々支配中役人中へ応対仕り候節、都合宜(つごうよろ)しく」と、述べている。つまり、この嘆願は、案内役一同が、尾張藩内での地位の向上を望み、それにふさわしい格好をすることを望んだ嘆願であり、管轄している村々、とくに村役人に対応するため、さらなる役威を求めているわけである。

図2-71 案内役が用いた「御用」提灯の図
天保12年11月「尾州御用留」(史料集22、p.71)

 一方で、こうした役威は、村々からは、役威を笠に着て権威がましい振る舞いが行われるなどと度々訴えられており、役威はあくまで案内役を勤めている時間に限定されるはずが、地域のなかで、恒常的に武士であると振る舞うことがあったようだ。こうした現象は各地でさまざまなかたちでみられ、人びとが経済的・意識的などさまざまな理由で身分の上昇を志向する「身上(みあ)がり願望」として、研究が進んでいる(深谷克己『江戸時代の身分願望』)。
 案内役たちの武士身分志向は、同じ案内役たちに対し、武士にふさわしい振る舞いを求める自己規制としても働いたようであり、小川家に残された文政二年(一八一九)の史料では、案内役が同役にあるものに対し、興業や賭博、人形芝居を主催したり、「御屋形様(おやかたさま)にては御目見(おめみえ)以上の御取り扱いの由吹聴致(ふいちょういた)され候得共武士道不案内(そうらえどもぶしどうふあんない)に相見(あいみ)え…」「御殿様(おとのさま)え御目見成(おめみえな)られ候身分にて見苦敷様体笑止千万(みぐるしきようたいしょうしせんばん)に存じ奉り候、御刀は何のために指し候哉(や)」などと、武士にふさわしくない行いをしていると叱責しているようすが見られ、意識や見た目のうえでも武士であろうとしていたことがわかる(史料集二一、二一七頁)。小川家では享保期より歴代当主が上泉(こういずみ)流や大平神鏡(おおひらしんきょう)流などの剣術・鎗術(そうじゅつ)・弓術(きゅうじゅつ)の免状を受けている点もこうした意識を裏付けるものだろう(小川家文書)。

図2-72 小川弥次郎の武術免許
上:享保19年「(武術免許状)」(小川家文書)、下:延享4年「(武術免状)」(小川家文書)

 また、小川東吾は、天明七年(一七八七)、旗本との婚姻を計画する。当時案内役だった東吾は、幕府小普請(こぶしん)組水野大膳(だいぜん)支配で二〇〇俵の酒井半三郎(はんざぶろう)との婚姻を進めていた記録が残されている(小川家文書)。酒井家は、徳川綱吉が将軍継嗣(けいし)となる以前の甲府藩(こうふはん)の時代、綱吉の江戸屋敷である桜田館(さくらだやかた)で取り立てられ、その後、綱吉の将軍就任に伴って旗本となった家柄で、代々小十人(こじゅうにん)を勤めてきた。旗本御家人の婚姻については、その身分を管轄する上役の承認が必要なため、当時小普請組の酒井は、小普請組頭の水野大膳に伺書(うかがいがき)を提出しているが、注目されるのは、小川家の肩書きである。伺書では、「尾張(おわり)殿家中(かちゅう) 小川東吾娘」とあり、表向きには、この婚姻は、尾張藩士と下級旗本との婚姻として、申請されたのである。しかし、この願いは、なかなか受理されなかった。というのも、水野が小川東吾の身分について尾張藩に問い合わせたところ、「東吾義御鷹場案内の儀計仰せ付(ばかりおおせつ)けられ、御家来(ごけらい)にてはこれ無く」「家来にてはこれ無く右に付き扶持方(ふちかた)ばかり呉(くれ)候百姓の由申聞き」「小川東吾家中の者にはこれ無く武州多摩郡小川村の百姓にて鷹場案内の儀申し付け置き候者」と、尾張藩からは、扶持を支払い鷹場案内を申しつけているが、あくまで小川村の百姓であり、尾張藩士ではないとの回答が寄せられているのである。結局、この婚姻は成就しなかったようだが、先に見た案内役たちの自己規制とあわせて、案内役たちが武士たろうとし、婚姻を通じて武家社会に連なろうとする行為には、「御用」を請け負うことを通じて、身分を越えて自らも治者の一角にあると自認する意識を読み取ることができる。