在村同心の広がり

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八王子千人同心(はちおうじせんにんどうしん)とは、その名の通り、八王子に集住する同心たちのことである。発祥は戦国大名武田氏に仕えた小人頭で、武田氏滅亡後徳川氏に召抱えられた小人頭(こびとがしら)たちが、北条氏滅亡後の関東の地域支配の要である八王子に駐屯したのがはじまりである(甲州街道の押さえという説もある)。同心に召抱えられたのは主家を失った浪人たちが主で、それに八王子周辺の豪農層が加わる。戦国から近世初期の関東の地域支配の要点八王子に、大久保長安(ながやす)をトップとして地域支配を行う十八代官と、軍事(治安維持)を行う千人同心が配置されたのである。戦国期、北条氏の拠点であった八王子は、北条氏滅亡後も、土着した土豪などの勢力が潜伏しており不安定だったため、地域支配を展開するうえでも、軍事力が必要だったわけである。しかし、文治政治(ぶんちせいじ)への移行にともない八王子での軍事的役割は消滅し、千人同心は八王子を中心とした地域に根ざしていく。
 千人同心の組織は、近世前期は、代官頭大久保長安の指揮を受ける一〇人の小人頭(長柄頭(ながえがしら)、のちの千人頭(せんにんがしら))がそれぞれ一〇人の小頭(こがしら)を率い、一人の小頭が九人の小人(こびと)(中間(ちゅうげん)とも、のちの千人同心)を管轄し、後に老中支配(ろうじゅうしはい)となる。千人頭は準旗本の格式で、家禄は二〇〇~四〇〇石ほどである。千人同心は一〇俵一人扶持~五〇俵ほどの家禄を支給されたが、身分は基本的に村の人別に属する百姓であった。
 享保以降になると、千人同心は老中-鎗奉行の支配を受け、一〇人の千人頭がそれぞれ一〇人の組頭・一〇人の世話役・七〇人の平同心(ひらどうしん)を率いる体制となる(同心の総数は九〇〇人に減員)。各千人同心は、普段は八王子町か周辺村に居住しつつ、一〇人の千人頭のいずれかの組に入り、職務にあたるわけである。
 
八王子千人同心組織図
図2-74 八王子千人同心組織図

 千人同心の職務は、近世初期では、基本的には八王子周辺の治安維持であり、また、幕府の軍事発動時(島原の乱(しまばらのらん)など)は、幕府直属軍最末端として動員されることもあった。しかし、慶安四年(一六五一)に三代将軍徳川家光が死去したのちは軍事動員はなくなり、変わって日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)の警護「日光火之番(にっこうひのばん)」が主な職務となり幕末まで続くことになる。
 日光火之番は千人頭一人と同心が四五人(組の半数)で半年間勤務する。組頭が一〇人おり、半組で半年間勤務するので、一人の同心が日光火之番を担当するのは、一〇年に一度のことである。
 千人同心の顕著な変化は、その地域への広がりである。嘉永七年(一八五三)の千人同心の分布を記した「番組合之縮図(ばんくみあいのしゅくず)」では、八王子とその周辺を中心に、北は現青梅市・奥多摩町、南は現相模原市南部、西は現相模原市西部、東は現三鷹市周辺までの広域に分布している(馬場憲一「八王子千人同心の世襲と分布」)。千人同心のうち、八王子以外の村々に居住する同心を在村同心(ざいそんどうしん)という。八王子での軍事的役割を喪失した千人同心は、生業を立てるために、一七世紀中頃より、八王子周辺に土地を買い、百姓と縁戚関係を結ぶなどして土着志向を強める。また有力百姓もその地位向上のために積極的に千人同心と縁戚関係を結ぶようになる。そもそも千人同心の身分は宗門人別帳に記される百姓であり、これは最後まで変わらなかった。この千人同心の百姓化と百姓の千人同心受け入れの結果、広大な地域に千人同心が居住することになったのである。千人同心が村に受け入れられ、或いは百姓が千人同心になることは、その権利(同心株(どうしんかぶ))を売買する方法で行われる。積極的に株を買い求めたのは、先に見た御用を請け負う人々と同じ階層に属する人々で、豪農層の地位向上・身分上昇の手段として、同心株が求められた。しかし、同心株の広がりは地域の中に軋轢(あつれき)を起こす原因ともなったため、幕府は村役人が千人同心となることを禁止した。
 また、千人同心が地域に広がっていくなかで、千人同心を統御し、自らは旗本である千人頭たちは、千人同心が百姓化することを憂い、身分上昇のために千人株を取得した百姓たちも、御家人でありたいと願ったため、千人同心・千人頭双方から、近世を通じて千人同心の御家人化運動が行われる(吉岡孝『八王子千人同心』)。