當麻勇蔵の日光勤番と武芸稽古

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小平市域は八王子から約一五キロメートルほど離れているが、在村同心の分布のなかに包摂されており、市域でも、複数の千人同心が確認できる。最初に確認できる千人同心は大沼田新田の當麻勇蔵(たいまゆうぞう)である。勇蔵は大沼田新田名主當麻弥左衛門輝国(たいまやざえもん)の弟であり、のちに名主を勤める當麻翁助(たいまおうすけ)の父にあたる。當麻勇蔵は、遅くとも文化一四年(一八一七)には千人同心となっており、文政一二年(一八二九)の宗門人別帳において、「八王子千人同心 組頭」と肩書きされており、その後、嘉永三年(一八五〇)まで、千人同心を勤めていた。

図2-75 大沼田新田「宗門人別帳」
文政12年(當麻家文書)

 ただし、宗門人別帳において千人同心と肩書きされる一方、苗字は記されず「勇蔵」とあるのみである点は重要である。千人同心の身分上昇志向において常に問題となるのは、本来的な身分のことであり、村の人別に登載され、苗字を記すことができない以上、本来的には百姓身分である。そのため千人同心は、近世を通じ、人別帳(にんべつちょう)からの離脱(別帳作成)、人別帳への苗字記載を求めて運動を展開するが、一貫して認められず、唯一許されたのが、「千人同心」と肩書きすることだったのである(吉岡孝『八王子千人同心』)。
 當麻家では、先にみたとおり文政元年より、勇蔵の兄で名主の弥左衛門輝国が鷹場預り案内役を勤めており、勇蔵の息子の翁助も、案内役を勤めている。當麻家は大沼田新田の名主を勤める一方、千人同心・鷹場預り案内役という(一時的な)武士身分をもあわせ持っていたわけであり、當麻家の身上がり志向を見て取ることができる。兵農分離下の村においても、こうしたかたちで武士は村にいたわけである。
 當麻勇蔵の在村同心としての活動の実態を、残された史料からみておきたい。千人同心の最も重要なな職務は日光火之番である。勇蔵は、文政一四年に日光火之番を勤めており、この時の道中にかかった出費を記した「日光道中木銭帳(にっこうどうちゅうきせんちょう)」が残されている(史料集三〇、二九七頁)。勇蔵は千人頭山本橘次郎組の組員であり、この時は組頭を勤めていた。組頭として道中の宿泊賃をとりまとめていたようで、一二月七日の鹿沼宿(かぬましゅく)(現栃木県鹿沼市)をはじめに、以後、栃木宿(とちぎしゅく)(現栃木県栃木市)・堀米宿(ほりごめしゅく)(現栃木県佐野市)・行田町(ぎょうだまち)(現埼玉県行田市)・坂戸宿(さかどしゅく)(現埼玉県坂戸市)・扇町屋(おうぎまちや)(現埼玉県入間市)と、それぞれの宿場で宿泊代金をまとめて支払っている。千人同心は、八王子から拝島(昭島市)・箱根ヶ崎(はこねがさき)(現瑞穂町)と北上し、扇町屋・行田・栃木・鹿沼と北上して日光へいたる。この道は日光脇街道と呼ばれたが、道順から、勤番が明けて八王子へ戻る道中の記録だと思われる。日光東照宮は、徳川家康を祀(まつ)る徳川家の聖地であるが、その防火警備を担当するのが日光火之番の職務であり、當麻勇蔵も、千人同心組頭として、火之番に従事していたのである。
 このほか、八王子の千人頭の記録には、當麻勇蔵が月番の一員として八王子に詰めて勤務していた記録が残されている(「文政九年~天保九年 千人町より到来之書状留帳」)。
 また、在村同心は、寛政御改正とよばれる千人同心制度の改革により、各千人頭の組とは別に、地域ごとに、一組一〇名から二〇名ほどで、一番から五〇番までの組合(番組合)を結成し、日常的に会合を開き、千人同心としての振る舞いや心構えを申し合わせ、学問に励むなどさまざまな活動に従事した(吉岡孝『八王子千人同心』)。番組合のなかでも重要な取り組みが武芸稽古である。當麻家文書には、勇蔵が属した四七番組の文政五年の用留が残されている(當麻家文書)。この記録によれば、四七番組合には一五名の同心がおり、組合の寄り合いなどにかかる入用が計上されているが、記事の中には「芸術下稽古仕法(げいじゅつしたげいこしほう)」とあり、師範を呼んで何らかの武芸の稽古をしていたことがわかる。
 次に小平市域で確認される千人同心は、野中新田善左衛門組の佐藤源兵衛(さとうげんべえ)である。佐藤は野中新田善左衛門組の在郷商人佐藤惣兵衛(さとうそうべえ)の分家であった。野中新田には関連の史料が残されていないため詳細は不明だが、嘉永元年・二年・四年の千人同心河野組の宗門手形には、「佐藤源兵衛 多摩郡野中新田 延命寺(えんめいじ) 本寺中藤村(なかとうむら)真福寺(しんぷくじ) 真言宗」とあり(『多摩文化 一四号』)、遅くとも嘉永元年には、千人同心となっていたことがわかる。佐藤源兵衛がはっきりと姿を現すのは野中新田を去る時である。田無村の『公用分例略記(こうようぶんれいりゃくき)』に収録された史料によると、田無村に与兵衛(よへえ)という百姓がいたが、潰れ百姓となってしまったため、田無村名主下田半兵衛(しもだはんべえ)は、与兵衛と縁戚関係にあった佐藤源兵衛の娘ゆきに、与兵衛の跡を継がせようとしたという。ただし、ゆきは当時一二歳と若すぎるので、父の源兵衛も、この時一緒に田無村に移住したという。源兵衛にとっては、無償で屋敷田畑が手に入るため、千人頭の河野から許可を取ってこの話を受けた(『公用分例略記』、吉岡孝『八王子千人同心』)。田無村へ移住した源兵衛であるが、その後も野中新田佐藤家の重鎮として、訴訟などでたびたび顔を出している(三野行徳「近藤勇の母「ゑい」と兄「惣兵衛」」)。