図2-76 「番組合之縮図」該当箇所拡大
『八王子の絵図Ⅰ』より転載。
小平市域の村々がこの時期に千人同心を求めた背景について、谷保村(やほむら)(現国立市)の千人同心佐藤東太郎(さとうとうたろう)は、以下のような風聞を記録している。佐藤の「日並録 諸用留」という記録には、「嘉永六丑(うし)春中 武蔵野新田にて諸方村々川越(かわごえ)家御加増に付き領地に相成(あいな)り趣故(おもむきゆえ)、千人同心これ有る村は相除きと申事故(もうすことゆえ)、村方同心同居に相成り申し候、下谷保村へは井上松五郎同居、上谷保村は此時平沼平馬住居成り、四月五日に相成り候て四十九番組皆荒増(あらま)し出、土方兼五郎(かねごろう)戸倉新田、西村善右衛門は野中新田、並木氏者高木(たかぎ)新田…」(『佐藤康胤家所蔵史料-八王子千人同心関係-2』)とある。この史料によると、嘉永六年の海防体制の変化にともない、武蔵野新田が川越藩領に編入されるが、在村同心がいる村は藩領への編入を逃れられるとの風聞があり、それにともない、村に乞われる形で千人同心(株)が大きく移動したというのである。これはあくまで風聞を書き留めたものであるが、小平市域の村々がこの時千人同心を求めたのは事実であり、大沼田新田の田村金右衛門と、小川村の小町清五郎の記録が残されている。
大沼田新田では、當麻勇蔵が長く千人同心を勤めていたが、嘉永三年に隠居し宮沢村(現昭島市)の田村金右衛門に株を譲り、以降、千人同心は不在となっていた。そんななか、川越藩領編入騒ぎが起こり、大沼田新田では、田村金右衛門を村に迎えたわけである。當麻家文書には「田村金右衛門一件入用(いっけんにゅうよう)帳」とする記録が残されている。田村を迎えるためには八王子でのロビー活動が必要だったようで、「八王子入用」「八王子祝儀金」などが計上されている。また、田村を迎えるのにかかった費用五三両余を村で負担しており、當麻勇蔵の場合と異なり、當麻家の役威ではなく、大沼田新田を防衛するため(私領忌避運動)の、同心獲得だったわけである。宗門人別帳によれば、田村はその後安政四年(一八五七)まで名主弥左衛門家に同居し、安政四年(一八五七)に、宮沢村へ戻っている(當麻家文書)。
小川村の場合、より「村」で千人株を求める様子が鮮明となる。小川村では「当村近村(とうそんきんそん)共川越領分に相成り候風聞(ふうぶん)にて千人株これ有る村々は御免に相成り候由にて、宮沢村より千人株買い受け」と、やはり川越藩領編入の回避のため、村で同心株を求めるにいたる(細田家文書)。小川村では、百姓清五郎が、宮沢村の中村又一郎組在村同心小町六之助(ろくのすけ)から同心株を購入し、千人同心小町清五郎となっている(小川家文書)。この時、同心株の購入には一七四両三分二朱三二四文もの費用がかかったが(細田家文書)、この代金について、同心株を購入した百姓清五郎と小川村とで「株金其外雑用(かぶきんそのほかざつよう)共村方より六分出金(ろくぶしゅっきん)に相成り、私より四分出金の積もりを以て取り極め置き」と、清五郎方が四分、村が六分を負担しているのである(小川家文書)。村方の負担は一〇四両三分二朱三二四文となるが、村全体で高割りで負担し、村組ごとに集めたようで、小川村坂組の集金記録が「千人買金割合(かいきんわりあい)帳」として残されている(細田家文書)。清五郎は村に対し、千人同心となったからには、「日光御山并に八王子勤向(つとめむき)の儀は相違なく相勤(あいつと)め」と、千人同心としての勤めを果たすと共に、「村方一統(いっとう)へ対し、聊(いささ)か不法の義等これ無く様仕(ようつかまつ)るべく候」「後年に至り候ても権威ケ間敷き義仕(つかまつ)らず様心付(こころつ)け申すべく候」「是迄(これまで)の通り村方仕来(しきた)りすべて相背(そむ)き申す間敷(まじく)」と、千人同心になったからといって、子孫にいたるまでこれまで通りの一村人として振る舞うことを繰り返し約束している。そして、「万一(まんいち)私方にて相勤め兼(か)ね候節は、村方相談のうえ、村内(そんない)へ譲り渡し候様仕るべく」と、千人同心を勤められなくなった場合、株を村内で譲渡することを約束しているのである(小川家文書)。このように、千人同心となるのは小町清五郎個人であるが、一方で、この千人株は、村の株としての側面を強く持っていたのである。なお、清五郎の意識や動向の詳細は不明だが、小川村の宗門人別帳では「八王子千人同心 小町清五郎」と、苗字が記されている(小川家文書)。関連史料や事例がないため確たることはいえないが、人別帳に苗字を記すことで武士身分であろうとする運動は、在村同心の末端において、続いていたのかもしれない。
図2-77 小川村「宗門人別帳」
安政4年(小川家文書)
野中新田西村善右衛門と小川新田並木郡次については関連史料がないため不明だが、時期からして、川越藩領編入騒ぎを受けて、村が同心を求めた結果と考えられる。こうして小平市域の村々に、村の支援を受けて千人同心(株)がやってくるわけだが、それ以降の千人同心の公務は、これまでの「日光御山并に八王子勤向」とは、大いに様相を変える。小平市域の千人同心は、幕末の戦場にかり出されて行くのである。