幕末の戦争と村の千人同心

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以上のように、村の中からも、武士の「武」の一角を担う人びとが恒常的に再生産され、また、当事者たちも、それにふさわしい内実をえるべく、武芸訓練に励んでいた。しかし、開国以後、社会情勢は大きく変化し、やがて内戦状態に突入する(第三章第六節)。そして、千人同心たちも、大坂の陣や島原の乱から二世紀を経て、再び軍事動員されてゆくのである。幕府は、対外的危機に対応するため、天保・安政・文久と、段階的に軍制改革を行い、従来の馬上士と従者からなる軍隊から、近代的な三兵(さんぺい)陸軍(歩兵・騎兵・砲兵)の創設を目指す。このさい、従来の軍制(戦国期の戦功に応じて家格が決まり、当主が馬上士となり、家臣が従者となって小軍団を編成し、その連合で軍団を編成する)ともっとも齟齬(そご)を来(きた)したのは、歩兵(銃卒(じゅうそつ))の問題である。歩兵である限り、高禄であろうが低禄であろうが、歩兵として一様に行動する必要があるため、見た目のコードでそれぞれの上下関係を表現する近世の武家社会にとって、相容れない制度だったのである。そこで幕府は、旗本家を当主と従者とで切り離し、当主は士官として再教育する一方、石高に応じて歩兵となる人員を知行所から供出させる、旗本兵賦を文久二年(一八六二)に導入し、また慶応元年(一八六五)には、幕府直轄領からも石高に応じて人員を供出させる、幕領兵賦を導入した(第三章第五節)。また、幕領で導入された農兵も、幕府としては、歩兵を調達し動員することに眼目があった。こうして、本来百姓だったり、武士との境界線にいるような人びとを集め、歩兵として訓練し、動員することによって、幕府陸軍の歩兵は編成されて行くのである。こうしたなか、千人同心も当然のごとく歩兵として改組される。文久三年、千人同心はそれまでの鎗奉行支配から講武所奉行(こうぶしょぶぎょう)支配へと移り、慶応元年(一八六五)には陸軍奉行支配となる。慶応二年一〇月には千人同心から「千人隊(せんにんたい)」へと改称し、これまでは一〇人の千人頭が一組九〇人を担当していたが、以後は、誰々組という組み分けは解消し、一〇人の千人頭が千人隊之頭(せんにんたいのかしら)と改称して九〇〇人の組頭・世話役・平隊士からなる千人隊を指揮することとなる。千人同心の軍団での担当は長柄(ながえ)と呼ばれる長鎗だったが、この時、銃隊に組み直されている。つまり、千人同心は、一〇名の士官と、九〇〇人の銃卒・歩兵へと再編成されるのである。
 千人同心は、講武所奉行支配となった文久三年以降、相次いで、それまでになかったかたちで動員される。文久三年二月、一四代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)は京都へ上洛するが、千人同心は、千人頭五名、同心は行列に随行する御供方三八八名、上洛中の京都市中の警衛にあたる警衛(けいえい)方二二六名の計六一四名が、上洛に随行している。御供方は炮術(鉄砲)方二八八名と長柄方一〇〇名で構成される。九〇〇人中の六一四人であるから、日光火之番に出ている同心を除く大半が、この時動員されたことになる。この時の上洛方の名簿には、炮術方に佐藤源兵衛の名前がみいだせる(「御上洛御供方万日記控」「御上洛供方長柄方・術方・警衛方覚」)。一行は、文久三年二月一三日に出立し、三月四日京都に着いている。京都では孝明天皇(こうめいてんのう)の岩清水行幸(いわしみずぎょうこう)などの警衛にあたり、六月一三日に御供方は大坂を出立し(警衛方は大坂を引き続き警衛)、七月二日に警衛方も大坂を出立している。この時の上洛では、途中に久能山(くのうさん)に参詣したり、将軍の乗る船を見物するなど、物見遊山(ものみゆさん)に近いのどかさがあった一方で、千人同心が従来のスタイルとは違うかたちで動員されており、この動員においても数人の同心が病死し、大坂の駐屯地では、同心間でのいさかいも起こるなど、戦場文化ともいうべき現象もあらわれはじめている。
 なお、この上洛にあわせて上洛したのが、後に新選組(しんせんぐみ)となる浪士組(ろうしぐみ)である。浪士組隊士井上源三郎(げんざぶろう)の兄で千人同心の井上松五郎も、この時御供方で上洛しており、その日記には、浪士組の動静も記されている(『八王子千人同心井上松五郎文久三年御上洛御供記録』)。千人同心にしても、浪士組にしても、この文久三年の将軍上洛は、本来的な武士身分ではない、武士身分の周縁に位置する人びとが、武士が担うべき政治と軍事に身分を越えてかかわりはじめた画期となったのである。

図2-78 徳川家茂の上洛を描いた「東海道名所風景」
(国立国会図書館所蔵、デジタル化資料)

 以後、同年九月から横浜警衛に千人頭一名と同心一六〇名が派遣されたのをはじめに、横浜には以後三回(元治元年一〇月~、慶応二年七月~、慶応四年正月~)、八王子の小仏関所(こぼとけせきしょ)に三回(文久三年九月~、元治元年七月~、元治二年七月~)、江戸の青山焔硝蔵(えんしょうぐら)に二回(文久三年一二月~、元治二年三月~)、千駄ヶ谷(せんだがや)焔硝蔵に二回(元治元年三月~、元治二年三月~)、和泉(いずみ)新田(現杉並区)の焔硝蔵に一回(元治二年三月~)、横浜の太田陣屋(おおたじんや)に一回(慶応三年九月~)、荻野山中陣屋(おぎのやまなかじんや)(現厚木市)に一回(慶応三年一二月~)と、横浜をはじめ、江戸各地の関所、煙硝蔵、海防陣屋に派遣され、警衛に従事している。さらに、元治元年(一八六四)に天狗党の乱(てんぐとうのらん)が勃発した際には、天狗党から甲斐(かい)を警衛するために、千人頭八名と同心八六四名が派遣され、慶応二年六月(一八六六)に武州一揆が起こると、千人同心は日野周辺で一揆勢を迎え撃つなど、警衛に留まらず、具体的な戦闘行為にも及んでいるのである。
 千人同心の軍事動員のなかで、最も影響の大きかったのは、第二次長州戦争への動員である。禁門の変を起こした長州藩に対し、元治元年七月(一八六四)に追討令が出されると、当初は長州藩が恭順姿勢をみせたために、第一次長州戦争は戦闘のないまま終わるが、長州藩でクーデターが起こり、長州藩は再度反幕府的な姿勢をみせたため、幕府は、慶応元年、第二次長州戦争のために出兵する。この時、千人同心は千人頭四名、同心は炮術方三〇〇名、長柄方一〇〇名、旗指(はたさし)方三二名の計四三二名が出陣している。千人同心は慶応二年五月に八王子を発し、翌閏五月に大坂に到着する。小町清五郎もこの時の進発に動員されたようで、慶応元年五月九日の小川村の御用留には「千人町(せんにんちょう)中村様御組(おんくみ)同心小町清五郎罷り越(まかりこ)し、今般御進発(ごしんぱつ)在らせられ候に付き御供仰(おともおお)せ付けられ、明十日出立江戸表へ罷り出(いで)候間、留守中の義何分宜敷(よろしく)相頼み候」と、第二次長州戦争に動員されるため、五月一〇日より江戸へ行くので、小川家に留守宅を頼むと言っている。清五郎については「村方住宅の者に付右申し聞き候」と注釈されており、清五郎が千人同心である一方、小川村在住のものであったことが確認できる(小川家文書)。多摩郡小山村(現町田市)の千人同心小嶋隆蔵の残した「御進発御供日記」によると、清五郎は炮術方第二小隊に配備されている(『御進発御供日記一』)。こうして、わずか一〇年前までは小川村の一百姓だった清五郎は、千人同心として、遙か長州(現山口県)の地の戦場に赴くことになるのである。
 大坂に着いた千人同心は、以後一年間、大坂の警備にあたることになる。当時、幕府と朝廷、一会桑(いっかいそう)(禁裏守衛総督一橋慶喜(きんりしゅえいそうとくひとつばしよしのぶ)・京都守護職松平容保(まつだいらかたもり)・京都町奉行松平定敬(まつだいらさだあき))、薩摩藩(さつまはん)や福井藩などの雄藩の間で、長州藩の処分をめぐって熾烈(しれつ)な政治的駆け引きがされており、幕府が本格的に出兵を決断するのは、慶応二年四月のことである。出陣に先立つ四月六日の『続徳川実紀』には、「芸州行千人頭初御目見(げいしゅういきせんにんがしらはつおめみえ)」とある。千人頭は基本的に御目見できない身分であったが、出陣に先立ち、大坂城大広間で将軍家茂に謁見を許されたのである。さらにこの時、千人同心は「御目見同様の儀」として、大広間の縁側に詰めることを許されたのである。江戸時代を通じて願い続けてかなわなかった正式な武士身分としての扱いが、戦場での戦闘を目前にして実現したのである。千人同心はその後前線に送られ、炮術方は、六月一五日に九州小倉(こくら)(現小倉市)に出陣して長州藩と交戦する。しかし戦況は芳しくなく、七月末に撤退し、日田(現大分県日田市)・別府(現熊本県別府市)と退き、八月一八日、海路伊代松山(いよまつやま)(現愛媛県松山市)へ逃れ、同年一一月、ようやく八王子へ帰り着く。この時の戦争で、少なくとも二七名の千人同心が戦病死している。小町清五郎がどのような戦闘を経験したのかは史料もなくわからないが、こうして清五郎は、小平市域で最初に戦場を経験した村人となったのである。しかし、ちょうど同じ頃、小川村周辺では、農兵たちが武州世直し一揆勢と戦闘を行っていた(第三章第六節)。百姓たちが領主同士の戦争に加わり、地域を守るために戦闘する-小平市域の村人と「武」との関係の変化には、近世の終わりと新たな時代の到来がくっきりと映し出されている。