コラム 千人同心田村金右衛門の明細短冊

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 近世の武家社会において身分を管理するために用いられたのが、「明細短冊(めいさいたんざく)」と呼ばれる形態の史料である。短冊状の縦長の用紙に、身分・家禄・扶持・本国・生国・職・名前・年令・住所・これまでの履歴などがまとめられており、身分を管轄する者のもとで、綴じられて管理されていた。千人同心も明細短冊で身分を管理されており、その一部が、八王子市郷土資料館に所蔵されている。そのなかに、田村金右衛門の明細短冊がある。

図2-79 田村金右衛門の明細短冊
(八王子市栗沢家文書)

 この短冊によると、金右衛門は嘉永四年に、なんらかの由縁のあった大沼田新田の當麻勇蔵から千人同心株を譲り受け(番代)、窪田鉄三郎組の千人同心となり、二四俵と壱人扶持を支給されている。その後、嘉永七年より安政二年まで、大沼田新田に乞われて大沼田新田の當麻家に居住し、宮沢村へ戻っている。宮沢村では酒造人として成功していたようで、慶応二年に勃発した武州世直し一揆では、打ち毀しに逢っている。
 慶応四年三月一一日、維新政府軍は、京都から中仙道を通って八王子にやってきた。しかし、千人同心(千人隊)は、一部には彰義隊や仁義隊に呼応・合流するものもいたが、基本的に無抵抗で維新政府軍をむかえ入れた。金右衛門の短冊に「御人減ニ付御暇」とあるように、千人同心は六月九日に解散(徳川家から暇)となる。徳川家はその後、駿河府中七〇万石へ移封(静岡藩)となるが、静岡への移住を望んだ千人同心はわずか三人で、天皇の家臣(朝臣)となることを望んだ者が三〇人、その他の八六〇人は、村へ戻る(帰農)こととなった。それまでも、本来的な身分や日常生活は村人だったのだから、当然の選択である。
 金右衛門も帰農を選択し、宮沢村の平民となってその後を過ごす。ただし、千人同心として、徳川家の家臣であったという意識はその後も持ち続けていたようで、明治中期に、徳川家の旧家臣(旗本・御家人)が結成した旧交会の名簿には、「宮沢村 田村金十郎」と記されている。代替わりした息子と思われるが、田村家は、徳川家旧臣としての意識も持ち続けていたのである。
 金右衛門の明細短冊や旧交会の名簿には、武士と百姓との周縁にいる人々の、複雑な身分意識があらわされている。