近世は前代にくらべて、格段に文書の量が増えた時代であった。そのなかでも地方文書は日本各地で膨大に残されているが、これは幕府や藩などによる領主支配が、数多くの文書を媒介として行われたことに起因する。領主と村は、文書のやりとりを頻繁に行っていた。近世は「文書社会(もんじょしゃかい)」といわれるほどに、文書が浸透した社会だったのである。
領主からの命令や通達、そして村から領主への報告や訴えなども、文書によって行われることが基本とされた。たとえば、幕府は寛永年間(一六二四~四四)以降、村で村入用帳(むらにゅうようちょう)や年貢勘定帳などの帳簿を作成すること、帳簿の作成者である村役人だけではなく、そのほかの小前百姓の目を通すことも法令で規定している。また、領主へ提出する帳簿だけではなく、田畑質入証文など百姓相互の関係で作成される文書についても、その作成や捺印を法令によって規定した。村そして百姓は、多くの文書を扱うこと、接することを幕府法令によって義務づけられていったのである。