支配役所から村への通達

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領主から村へは、「上意下達(じょういかたつ)」、すなわち、領主の命令や意向を村へくだすという形式で伝えられる。具体的には、代官などの支配役所から「廻状(かいじょう)」と呼ばれる通達書が、随時村々へ届けられた。廻状は村ごとに配布されるのではなく、支配地内の一定の地域ごとに出された。図2-80のような形式である。
 

図2-80 江川太郎左衛門役所から出された廻状
未11月「(外国金銀通ニ付触廻状)」(斉藤家文書)

 
「(前略)
十一月
右之通御書付十一ヶ条
得其意村名下江名主
令請印早々順達留り
村より可相返候以上
 
江川太郎左衛門
未十一月十九日 役所(印)
 
多摩郡
日比田村(印)
野崎村 (印)
新田共含
南秋津村(印)
新田共
久米川村(印)
新田共
野口村 (印)
太右衛門組
同村  (印)
半四郎組
同村  (印)
勘左衛門組
野口新田(印)
太右衛門組
同新田 (印)
半四郎組
同新田 (印)
勘左衛門組
入間郡
大岱村 (印)
多摩郡
小川新田(印)
小川村 (印)
大沼田新田(印)
久米川村之内
大沼田新田(印)
野中新田(印)
同 新田(印)
同 新田(印)
廻り田新田
榎戸新田(印)
平兵衛新田(印)
右村々
名主
組頭     」

 
 この廻状は、安政六年(一八五九)一一月一九日、当時の支配代官江川太郎左衛門役所から、各村の名主・組頭あてに出されたものである。外国金銀の通用に関する幕府からの通達で、「右の趣、御料・私領・寺社領共、洩らさず様、触知らせるべきもの也」、すなわち、この通達は御料(幕府直轄領)や私領(大名領や旗本領など)のほか、寺社領にいたるまで通達すべきものとしている。さらに代官所はこの通達について、「その意を得、村名下へ名主請印せしめ、早々順達、留り村より相返すべく候」、すなわち、内容を理解したうえで、この廻状の村名の下に名主が印を据え、早々にほかの村へ順番に廻すこと、「留り村」すなわち最後の村は、廻状を代官所へ返すように指示している。
 廻状に記された村は順次、この廻状を受け取り、つぎの村へ送っていった。多摩郡日比田村(ひびたむら)(現埼玉県所沢市)から平兵衛新田(現国分寺市)までの二一か村、それぞれの村名の下に印が押されている。なお、本来ならば廻状は代官所へ返すものであり、村には残らないはずであるが、「廻り田新田」の箇所には印がないことが示すように、廻り田新田名主のもとにとどまったまま、現在にいたっているのである。
 またこの廻状には、大沼田新田のほか、「久米川村之内大沼田新田」も廻状を送る村として記されている。久米川村の大沼田新田とは、大沼田新田の年寄伝兵衛が所持していた「久米川新田」のことである(第一章第二節5)。村名の下には、ほかの文書にもみられる伝兵衛の印が押されている。久米川新田が大沼田新田と同様の村として扱われていることは興味深い。一方で、野中新田は「野中新田」「同新田」「同新田」とあり、三つの組の名は書かれていない。しかし印は与右衛門組・善左衛門組・六左衛門組それぞれの名主によって押されている。
 村に届けられた廻状の内容は、村役人が村の百姓へ伝えなければならない。その際、村役人は文書を作成するのではなく、村の寄合(よりあい)などにおいて、口頭で伝えたと考えられる。また領主から指示があった場合は、村に立てられた高札によって掲示しておくこともあった。