村から役所への提出①-村明細帳-

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村から支配役所へ提出する文書のあり方をよく示している例として、領主へ村の状況を報告した「村明細帳(むらめいさいちょう)」をみてみよう。村明細帳は「村鑑(むらかがみ)」「様子書上帳(ようすかきあげちょう)」などの名称が付けられることもある。村明細帳は、領主に提出を命じられた際に作成され、代官支配である幕府直轄領では、代官の交替時に提出することが多い。
 村明細帳は複数冊を作成し、提出した帳簿のほか、控の帳簿を村で保存していた。そのため、村に残された村明細帳の表紙に、控である旨が記されることがある。たとえば小川村の正徳三年(一七一三)の村明細帳は「古川武兵衛様江書上ヶ申候控 指出下書 武蔵国多摩郡小川新田村諸色指出帳」と表紙に記されている。代官古川武兵衛に差し出した控であり、下書きで、小川新田村(小川村)のようすを書いた帳簿、ということである。
 村明細帳などのように、領主へ提出する文書は、領主側から雛形が示されていた。村ではこの雛形に沿ったかたちで帳簿が作成されたのである。その一例をあげてみよう(史料集一、六四頁)。
 
(表紙)
「美濃紙袋綴
村差出明細書上帳
此案紙之外も前々より書出来候分者可書加事
附 村絵図壱枚者致別ニ美濃紙弐枚
横継之上可認出候事
何州何郡
何村   」

 
 雛形の表紙、右端上には「美濃紙袋綴(みのがみふくろとじ)」とあり、美濃紙を袋綴じの形式で作成することが記される。美濃紙とは、古代以来の和紙の名産地である美濃国を原産とする和紙で、近世ではとくに役所へ提出する帳簿などをはじめ、一般的に使用された紙である。表紙にはさらに「此案紙之外も前々より書出来候分は書き加えるべき事」、すなわち今回の案のほかに以前から書いているものも書き加えるようにとあり、できるだけ多くの情報を書き入れるように指示している。「附(つけたり)」として、添付する村絵図についても指示がある。村で実際に帳簿を作成するときは、表紙の記載のうち、「何州何郡何村」の部分に、各村の名を記すことになる。なお、この雛形の末尾には、「文政四巳年」、宛先として「中村八太夫様御役所」と書かれている。文政四年(一八二一)当時、小川村を支配していた代官中村八太夫役所から提出された雛形であろう。中村八太夫(知剛)はこの年に小川村支配となっており(第一章第三節)、支配替えを契機として提出を命じられた村明細帳だったのであろう。
 さて、この雛形の内容もみてみよう。
 
「年号何年誰検地
何之誰領分知行分郷
寺社領入会但検地帳有無何国何郡
一村高何程何領何村
内何石何斗無地高無反別但江戸江道法何里
此反別何町何反歩
一村内東西江何町南北江何町隣村東西南北可認メ
一最寄市場町場有無
一村内地形之様子
一高札場有所普請之訳
一郷蔵有無
(後略)

 
 村のようすに関する事項を細かく記すものである。いつ、誰によって検地が行われたか、誰の知行所であるのか、村高、村の面積のほか、幕府所在地である江戸からの距離も明示すること、近隣の市場や町場についてなど、江戸及び周辺地域の情報も記すことになっている。
 また、「(後略)」以後には、「百姓内出入に付、名主・年寄・五人組、江戸へ罷出候雑用差出方取極認むべし」という条文がある。「百姓内で争論が起こり、名主・年寄・五人組が江戸へ出府した場合の費用の出し方について、取り決めを書くように」ということである。村の百姓が争論にかかわり、江戸の代官役所などへ出府することはたびたびあったが(本章第七節)、村明細帳にこれを前提とした項目が指示されていることは、江戸での訴訟が頻繁に行われ、また訴訟自体が村社会に浸透していることを示している。これらの項目にもとづいて村明細帳が作成され、村の概観を把握するための基礎的な文書となっている。

図2-81 「村鑑帳」表紙
宝暦6年5月(史料集1、p.40)

 ところで、村明細帳作成の主要な目的は、領主に対して村の負担能力を明示させるというものであった。そのため、村にはできるだけ年貢や諸役の負担を軽くしようという意図があり、村明細帳の内容は、必ずしも村の実情を記したとはいえないことも事実である。たとえば、実際は市場が立てられていたにもかかわらず、市場なし、としたり、ある程度、地味がよかったとしても、地味が悪く作物は取れない、などと記すことは多くあった。文書に記した内容が実情を示していないということ、これは領主と村が文書を媒介とした関係であるために生じた問題でもある。「文書社会」がもたらす一側面ともいえるだろう。
 また、村明細帳とは目的が若干異なるものの、村の概要を特別に書き上げた帳簿もあった。大沼田新田では幕末の文久三年(一八六三)に、村の概要を記した書上帳を、代官江川役所からの指示によって作成した。通常、領主が交替したのちに作成される村明細帳が、この時は支配替え前に作成されたとみられる。この帳簿の表紙には、「私領渡差障有無書上帳(しりょうわたしさしさわりうむかきあげちょう)」とある。「差障有無」すなわち支障があるかないかの書き上げである。大沼田新田としては、私領になることへの不安があったのだろうか。村高を記した直後の条文に、村の知行をほかへ渡されたり、村を分割して知行されたりすると百姓は非常に困ると書かれている。さらには、「旱魃(かんばつ)の時は作物の仕付けに差し支えるが水損にはならない。用水引取方や組合村が引き離れては差し支える」との旨も書かれている。また、困窮の村であるともいい、できるだけ江川代官の支配を願っているようでもある(史料集一、一一三頁)。実際に元治二年(一八六五)三月、武蔵国多摩郡の村々は、江川代官からの支配替えが行われようとしていた際、支配替え反対の歎願書を提出するほどであった。