村から役所への提出②-宗門人別帳-

572 ~ 575 / 868ページ
村から支配役所へ毎年提出する帳簿の一つに、宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)(以下「宗門帳」とする)がある。もともとはキリシタン取り締まりを目的として作成、提出が命じられたもので、「宗門」すなわち、どの宗派の檀家であるかを示すために、檀那寺が明記される。一方で、宗門帳が持つ、もう一つの意味は、家ごとに一人ずつ、家族の名前や年令が記されていることなど、その内容が現代でいえば「戸籍」の役割を持った帳簿である点に求められる。宗門帳の分析内容については、大沼田新田などを事例として示したので(本章第四節)、ここでは宗門帳の記載内容や作成方法を中心にみてみよう(図2-82)。

図2-82 宗門人別帳の記載内容
安政3年3月「宗門人別帳控」(當麻家文書)

 
「 (泉蔵院旦那)
一右同断高四斗六合
百姓 伊左衛門(印)
辰六十四才
忰  伊右衛門
同廿五才
嫁  くめ
同十九才
忰  三蔵
同十九才
忰  伊太郎
同十六才
〆五人内四人男
壱人女   (貼紙)出生同人孫
辰二郎 二才

 
 大沼田新田の安政三年(一八五六)の宗門帳の一部、百姓伊左衛門の箇所である。最初に「右同断」とあるが、大沼田新田の檀那寺、泉蔵院の檀那であることを示し、泉蔵院の印が押されている。そして家の持高、当主の名前、名前の下に捺印、年齢(数え年)が記される。伊左衛門家の場合は、当主伊左衛門に続いて、忰・忰の嫁・次男・三男といった順で記される。この年の伊左衛門家は、男四人・女一人の五人家族であった。その後、忰伊右衛門と妻くめの間で男子が産まれたため、その旨を貼紙で書き加えていることがわかる。男子は「辰二郎」、すでに二才である。当時、乳幼児の死亡率が高かったこともあり、子どもが生まれてもすぐには宗門帳には記載せず、村あるいは地域によっては、五才以上にならないと記さない村もあった。大沼田新田では伊左衛門家のように、二~三才頃にはすでに宗門帳に書かれていることが多い。
 さて、大沼田新田の宗門帳の表紙には「安政三年三月」とあり、この年だけではなく、宗門帳は毎年ほぼ三月に提出されたようである。たとえば、弘化四年(一八四七)の正月明けに代官所から届けられた廻状には、「今年の宗門帳はかねてから知らせている通り、案文通りに調べ、また五人組帳や去年の村入用夫銭帳などもよく調べ、三月一〇日までに遅れずに提出するように。夫銭帳は二冊ずつ提出して役所が改める割印(わりいん)を受けるように」と指示されている(史料集五、一頁)。これらの帳簿は毎年三月に提出が求められていた。
 しかし、実際はなかなか期限通りに提出できなかったようである。役所からは毎年のように宗門帳提出の督促状が届けられている。同弘化四年四月の廻状の文面には、「宗門帳だけではなくほかの帳面もいまだに提出されておらず、いい加減な状態である。この廻状を見たらすぐに提出するように」とある。現実には三月の期限通りに提出していなくても、表紙には「○○年三月」としたのであろう。
 宗門帳の書式は、廻状に「かねてから」の「案文通りに」とあるように、これも書式がほぼ決められている。廻状にはこのほか「宗門帳と五人組帳は美濃紙の帳面で作るように。宗門帳奥付(おくづけ)の村役人の名前は年番・非番にかかわらず、村役人が何人いても漏れのないようにして全員が調印すること。また宗門帳に家族、牛馬の増減を記したものを、一冊ずつ添えて出すように」とある。指示した内容をすべて書いていない帳面が提出されていたものか、特別な注意書きともいえるだろう。また人や牛馬の増減を別に記すことも指示されている。実際に大沼田新田の嘉永三年(一八五〇)三月の宗門帳などは、「人別増減帳」を共に綴じて作成しており、その年の家数や人数などと前年の同項目、両年の差し引きを記している(當麻家文書)。
 このように書式が指示された宗門帳は、村明細帳などと同様に、名主などの村役人が作成し、各家の代表者が村役人の役宅で捺印をすることが一般的であった。名主が百姓へ印を持参するように触れ、寄合をひらき、寄合においてそれぞれの百姓が捺印した。宗門帳の冒頭には帳簿の記載事項など、百姓が守るべき旨の条文が記されているが、これらの条文を逐一、村役人が読み聞かせることもあった。なお、宗門帳は家ごとに家族を書き上げ、個々人の名前も列記されているが、帳簿全体は一人の筆によって作成されていることがほとんどである。百姓たちは個別に帳簿に文字を記すのではなく、印を押して名前や年齢、家族構成などの内容を確認したのである。
 後述するように、百姓のなかにはなにがしかの理由によって、宗門帳への捺印を拒否する者もいて、村役人を困らせることもあったが、村の百姓全員の捺印を揃えた後は、村役人あるいはその代理の者が江戸の支配役所へ出向いて、宗門帳を提出した。
 宗門帳も通常二冊作成されており、支配役所へ提出した一冊のほか、もう一冊は村で保存した。保存した帳簿は内容に変更があれば、付箋などを貼り付けて修正をした。村の人びとの縁組、逃亡、出生、死失などを、帳簿を保存していた村役人が適宜書き加え、翌年の作成に生かしたと考えられる。
 このほかにも多くの文書が作成、提出されたが、その量は時代がくだるにつれて増加し、文書作成の中心であった村役人の負担も重くなっていった。