各種の文書を作成するのは村役人が中心であった。領主へ提出する文書の場合には、村役人は紙や筆、墨を用意し、文字をしたため、小前百姓にも捺印を求め、支配役所へ提出するまでの責任を負っていた。村役人の資質に「筆算」が求められていたのは文書作成の必要があったためである(本章第一節2)。とくに名主は文書作成の中心となっていたため、名主が病気であることを理由に帳簿の提出を遅らせることもあった。小川村では安永九年(一七八〇)三月、この月に提出する予定の宗門帳と五人組帳について、名主が病気で提出できないので、翌四月一五日まで提出を延期させて欲しい、という願書を代官伊奈半左衛門役所へ提出している(史料集一八、一一〇頁)。
また、大沼田新田では、名主弥左衛門と年寄伝兵衛の二人が村運営をになっていたが、このことは、文書の作成や提出がこの二人を中心に行われたことを意味していた(本章第一節2)。