村の記録

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村で作成された文書のなかには、支配役所へ提出することをおもな目的として作成したものだけではなく、村に残す記録として作成したものがある。支配役所からの廻状を随時書き留めて記録した、「御用留(ごようどめ)」と呼ばれる帳簿である(口絵9)。前述したように、廻状は村へ継いでいくものであり、村には残らないために、その内容を村で書き留めておく必要があった。
 御用留の内容は、村あるいは村役人などの書き手によって若干異なっている。たとえば、大沼田新田の御用留には、廻状の写を記した後に「未七月廿五日柳窪村より受取、即刻小川新田へ継ぐ」として、廻状を受け取った村、そして継ぎ送った村も書き記しており、役所からの廻状だけではなく、大沼田新田内で作成された文書も書き留めることがあった(史料集五、一頁)。幕末期には改革組合村の惣代であった田無村の名主半兵衛からの廻状も多く届けられているが、この廻状も随時、書き記している。
 また廻り田新田では、廻状をつぎの村へ継ぎ送ったことを証明するための「御用請取帳(ごよううけとりちょう)」を作成し、保管していた(斉藤家文書)。天保三年(一八三二)以降のものが現存しており、明治期にいたっても作成されていたようである。このうち、安政六年(一八五九)「御用請取帳」から、鈴木新田・野中新田・小川村・小川新田へ廻状を届けたときの受取部分を図2-83に示した。廻状の継ぎ送り先の村によって、受け取った旨が記されると共に、印が押されている。八月一一日・一三日は田無村の名主下田半兵衛からの廻状、続く一五日と九月一一日は代官江川太郎左衛門役所からの廻状である。廻状の具体的な内容までは記していないが、それぞれ筆跡が異なり、各村の村役人が文字を記し、印を押したと考えられる。廻り田新田の名主あるいは使いの者が、廻状と共に継ぎ送り先の村へ、この帳簿を持参したのであろう。確実に廻状を渡したという証明になっている。近世後期には、各村が独自の考えによって、必要な文書を作成、利用していたようである。

図2-83① 「御用請印帳」(部分)
安政6年(斉藤家文書)

 
「一田無村下田半兵衛殿
より急御廻文壱通
右之通慥ニ受取申候以上
鈴木新田
未八月十一日   役人(印)
 
 
 
一田無村下田半兵衛殿
より廻文壱通慥ニ
受取申候以上
野中新田
未八月十三日   役人(印)
一江川太郎左衛門様
御役所御廻状壱通
右慥ニ受取申候以上


図2-83② 「御用請印帳」(部分)
安政6年(斉藤家文書)

 
小川村
未八月十五日   役人(印)
 
一江川太郎左衛門様御役所
御廻状壱通慥ニ請取
申候以上
小川新田
未九月十一日   役人(印)」