文書の管理と引継

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文書は必要に応じて意識的に管理され、引き継がれるものであった。とくに支配にかかわるものは、村役人層を中心に、村の文書として受け継がれていった。引き継がれる文書は検地帳や年貢割付状ほか多種多様であったが、彼らは文書をのちの証拠として、また村政運営上の手引きなどとして残し、引き継いでいったのである。
 鈴木新田の開発時、貫井村の半内(利左衛門)は、享保一一年(一七二六)に開発場へ移住するにあたって、文書を引き継いだ(第一章第二節3(2))。半内がこの時に引き渡した文書は、検地帳五冊、年貢割付状四三通、鷹場の餌指札四枚であった。半内は貫井村の重要書類である検地帳、年貢割付状、そして鷹場の村に下付された札を貫井村に残したのである。村の文書は、名主が交替する場合には、つぎの名主あるいは村役人に引き継がれるべきものであり、まして村を出ようとする半内は、これらの文書を村に残していく必要があった。
 大沼田新田では、慶応四年(一八六八)四月に、それまで引き継がれてきた文書の目録が年寄伝兵衛によって作成されている。帳簿の表紙には「御新田発墾之砌、初祖名主勤役中諸願書并諸帳面類、猶又当新田泉蔵院引寺開基諸証拠書、分水一件員数惣目録書」とある(史料集一八、一六八頁)。これは「新田開発の時、開発を行った初代名主による諸願書や帳面、当村泉蔵院の引寺開基にかかわる証拠書類、分水一件の目録」ということであり、これまで引き継いできた文書類の目録を作成したものであった。帳簿は「宝暦十一巳 御年貢勘定帳 一冊」からはじまり、六一の書類が記されている。六一の書類とはいっても、その中には六〇通を一つに記しているものもある。また、背表紙には「右の通り相改め置く者也 當間伝兵衛」、すなわち「當間(麻)伝兵衛があらためた」とあり、伝兵衛が帳簿に記載された文書の内容を確認したことが記されている。理由は不明であるが、伝兵衛はこのとき、それまで引き継いできた文書を確認したのであろう。この目録の内容を、記載順に一覧にしたものが表2-35である。
表2-35 慶応4年(1868)4月大沼田新田引継書類一覧
年代書類名数・単位現存
宝暦11年(1761)御年貢勘定帳1冊 
延享3年(1746)田方内見帳1冊
延享4年(1747)御年貢勘定帳1冊
宝暦8年(1758)村入用書上帳1冊 
延享2年(1745)村入用書上帳1冊 
宝暦11年(1761)養料金拝借書上帳1冊
宝暦11年(1761)出百姓本田持添改御水帳1冊 
延享元年(1744)出百姓請書諸願書帳1冊 
明和4年(1767)亥年溜井敷芝地起返御用諸払帳1冊 
延享2年(1745)村入用取立帳1冊 
宝暦13年(1763)未御年貢勘定帳1冊 
元文元年(1736)名寄帳1冊 
天明9年(1789)七ヶ村御上水分水自普請積書上帳1冊 
宝暦13年(1763)当新田起返芝地割付御見分小割帳1冊 
宝暦14年(1764)石盛反別書上帳1冊
寛保~宝暦年間(1741~63)諸願書并諸書付類60通 
寛延2年(1749)5月御代官川崎平右衛門様御支配替ニ付武蔵新田村々名主連印願書1通
寛延3年(1750)人別御改帳1冊 
寛延3年(1750)反別帳1冊 
明和元年(1764)家作御触書御請書1冊 
寛延3年(1750)村内議定書1通
延享~寛延年間(1744~50)村内名主役ニ付議定書2冊
宝暦元年(1751)御水帳写1冊 
宝暦13年(1763)高反別増減書上帳1冊 
延享元年(1744)*1大岱村拝借金質地証文1冊
寛延元年(1748)小麦駄賃諸払書上帳1冊 
宝暦6年(1756)村鑑書上帳1冊
安永8年(1779)御普請所書上帳1冊 
安永5年(1776)五人組判鑑帳1冊 
享保以来高入新田吟味仕出帳1冊 
延享3年(1746)御仕置五人組帳1冊 
寛延2年(1749)当新田村鑑帳1冊 
明和2年(1765)人別宗門帳1冊
宝暦9年(1759)村入用帳1冊 
延享2年(1745)田方反別帳1冊 
宝暦12年(1762)養料金御貸付小前書上帳1冊 
宝暦2年(1752)柳久保御年貢取立立会勘定帳1冊 
宝暦3年(1753)村入用帳1冊 
延享3年(1746)丸屋芝地仕訳帳1冊
宝暦12年(1762)*2畑引高小前書上帳1冊 
宝暦11年(1761)新田百姓之訳書上帳1冊
安永6年(1777)御上水御普請書上帳1冊
明和2年(1765)御鷹場御法度村々連印証文1冊
御検地御触御條目1冊 
寛保~宝暦年間より(1741~63)御用留12冊△*3
村方初発名主役之(ママ)ニ付議定帳2冊 
分水樋口書上書并絵図面1冊 
同 願書40通 
同 小川采女方より取置候証文1通 
分水一件書類30通 
安永年間(1772~80)分水一件 御裁許証文1通 
久米川之分当村御水帳1冊 
同 諸願書并書類50通 
同 絵図面-
寛延~宝暦年間(1748~63)古 御割附 惣計6通 
古 米納御受取証文30通 
水車一件書類20通 
泉蔵院引寺願書 御官許願面 開基証書1袋 
右 惣檀中離檀願 附御免許等10通 
右 造立諸入用 再建 稲荷宮造立 惣而諸帳面類20冊 
預ヶ金証文 質地流証文等30通 
合計:78冊・280通・1袋→359点
*慶応4年4月「御新田発墾之砌初祖名主勤役中諸願書并諸帳面類 猶又当新田泉蔵院引寺開基諸証拠書 分水一件員数惣目録書」(史料集18、p.168)より作成。
*文書の記載順に並べたもの。
*「現存」欄の「○」は現存するもの、「△」は該当すると考えられる文書があるもの。
*「*」は以下の通り。
 *1:現存文書からの推定。*2:文書には「宝暦10年午」とあるが、表では「宝暦12年」で掲載。
 *3:このうち6冊のみ現存と考えられる。

 このうち最も古い文書は、元文元年(一七三六)の「名寄帳」である。現在、この名寄帳に類するものは確認できないが、元文検地帳をもとに作成されたものであろう。伝兵衛の所持地の名寄帳であれば、伝兵衛家にとっても最も重要な文書の一つである。
 なお、この目録には包紙があり、つぎのように記されている。
 
(包紙表)
村方江八畝歩割渡書附此袋入ル
御支配
川崎平右衛門様御支配替ニ付   伝兵衛
古之物
武蔵野惣新田連印歎願書
当村方初発名主役書上村内議定書
(包紙裏)
慶応四辰四月
相改置者也
御用之物   四ッ之内

 
 包紙の表書きには、代官川崎平右衛門の支配替えに対して武蔵野新田の村々が反対することを記した歎願書、開発時の名主役についての村の議定書、そして村に八畝歩の土地が割り渡されたときの文書が入っていると記されている。また包紙の裏書きには「御用之物」「四ッ之内」とあるから、全部で四つのまとまりが存在していたこと、この包紙はそのうちの一つであることがわかる。なお、これら寛延二・三年(一七四九・五〇)の川崎平右衛門支配替え反対歎願書及び名主役議定書については、現在でもそれとおぼしき文書を確認することができる。また、目録に記された文書の年代をみると、伝兵衛が名主役を勤めていたときの文書が多く、また現在も伝兵衛家に残された文書として確認できる。このことは、大沼田新田の二人の村役人である弥左衛門と伝兵衛、それぞれが当時から村運営に関係する文書を管理していたことが考えられる。