近世の開発によって成立した新田村には、新田開発にかかわる文書も多く作成され、新田村ならではの文書も残されている。これらの特徴的な文書についてみてみよう。
新田を開発したいと願った者は、その旨を文書にしたため、願書として役所へ願い出た。それが新田開発の願書である。鈴木新田の開発で、利左衛門がたびたび提出していた願書のうち、享保六年(一七二一)一一月の願書に、「他村に古来より有り来り候野札、拙者共村へ譲り請け申候て」、すなわち、他村にかつて出された野札を我々の村で譲り受けているとしている。さらに「尤右願地の場所に古き印等御座候間、御慈悲に御見分遊ばしなされ、御吟味の上新田開発仰せ付けなされ下され候はば、惣百姓有り難く存じ奉り候」、すなわち、かねてから開発を願っていた場所の古き印(しるし)、すなわち開発許可を持っているので、見分(けんぶん)のうえで開発を許可して欲しいとしている(第一章第二節3)。開発を願う者にとって、開発許可書は当然重視されるべきものであった。
開発が許可され、領主からくだされたのが割渡証文である。この割渡証文は開発人が保存すべきものであった。そのため開発人が交替すれば、その証文の持ち主が交替することになる。享保一一年、利左衛門が開発場を取り上げられ、善左衛門らに開発の権利が渡されたが、その際、利左衛門にくだされていた割渡証文の裏に、役所から善左衛門・元右衛門あての役米上納の命令が記された(第一章第二節3、図1-28)。開発場の権利の移動と共に、開発場の割渡証文がそのままつぎの開発人へ渡されたということになる。