個々の百姓への割渡証文についても同様であった。土地所持のよりどころとなるのが割渡証文であり、土地の移動は、もとの所有者が記載された文書そのものの移動にもなった。鈴木新田では元文検地後の元文三年(一七三八)一月、名主利左衛門が元文検地帳にもとづいて、百姓ごとの所持地を書き上げた名寄帳を作成した。そのうちの一つ、平八が所持していた土地の名寄帳はその表紙に「亥年儀右衛門へ渡る」と記されている(深谷家文書)。名寄帳には下畑・下々畑・屋敷合計三反二畝歩が記されている。元文検地帳に記載された平八の所持地面積は二町九反九畝一八歩となるため、このうちの一部を、元文三年以降の亥年、寛保三年(一七四三)あるいは宝暦五年(一七五五)に、何らかの理由で儀右衛門が所持することになったのである。その際、この名寄帳がそのまま儀右衛門に渡されたのであろう。土地移動と関係文書の移動は新田村に限定されるものではないが、新田村で一斉に実施され、作成された元文検地帳の記載をよりどころにする、土地所持のあり方が現れているといえるだろう。
大沼田新田の伝兵衛が久米川新田を所持することになった際も、検地帳の所持をふくめて出入が発生していたが(第一章第二節5)、その後、伝兵衛が所持していた久米川新田は、嘉永元年(一八四八)一二月に野中新田勘右衛門へ渡されることになった。この時、当該地については「御水帳」=検地帳があるので、来春早々に役所へ出頭したうえで、この土地譲渡証文と共に「御書物」すなわち検地帳も残らず渡すということを記している(当麻伝兵衛家文書)。証文には「久米川分之内御水帳作右衛門請」とあり、すでに長く伝兵衛の所持地であったにもかかわらず、検地帳の名請人は作右衛門であったことが明記される。それだけ検地帳の記載は重要視されていた。
なお、明治五年(一八七二)一〇月の時点で、久米川新田は大沼田新田の大久保金太郎・野中新田の高橋定右衛門・同中嶋勘左衛門が分割して買い取っていた一方、伝兵衛の「持添(もちぞえ)」という位置づけがされていた。検地帳も引き続き伝兵衛が所持していたのである。そのため明治五年の地券取り調べにあり、神奈川県庁から「伝兵衛が検地帳を持っていたとしても、久米川村の地所なのだから、伝兵衛方で取り調べる筋ではない。早々に検地帳を差し出すように」との命令が出された(当麻伝兵衛家文書)。そこで久米川村(現東村山市)の戸長立川伊兵衛らは、大沼田新田の戸長・副戸長そして伝兵衛へ検地帳の貸出依頼をしている。土地の所持と検地帳所持とが密接に関係していた一方で、神奈川県庁はこういった状況を否定する態度を示していた。