宝暦一一年(一七六一)、代官伊奈半左衛門によって「出百姓」の状況を記した帳簿の作成、提出が命じられた。これは、新田に入村した百姓(出百姓)の出身地、入村年などを書き上げた帳簿である。武蔵野新田において一斉に作成されたもので、小平市域では現在、鈴木新田、大沼田新田、廻り田新田の三冊が確認できる(第一章第二節3・5・6)。幕府は新田や入村百姓のようすを把握する意図をもっていたのであろう。このような記録は、新田村には特徴的な文書の一つといえる。但し、同様の帳簿であっても、村によって若干記載内容や書式は異なっている。鈴木新田の「出百姓国郡村名覚帳」には、「今元右衛門 源右衛門」などとして、帳簿作成当時の百姓名と入村時の名を併記したものがある(深谷家文書)。記載された八二名の百姓のうち三九名が改名しており、百姓が改名する契機を考えるにも興味深い事例である。
このほか武蔵野新田全体の新田村の状況を書き上げたものに、元文四年(一七三九)九月「南北武蔵野出百姓草分書出帳」がある(史料集一二、八三頁、図2-84)。この帳簿には、現在の小平市域の村々だけではなく、武蔵野新田と呼ばれる新田村のうち三九か村に、元文四年段階でどのくらいの家があるのかを書き上げた帳簿である。たとえば大沼田新田には「三拾九軒」「内六軒潰 壱軒家守」と記されており、この時点で大沼田新田には三九軒の家があるが、六軒は潰れてしまっていること、一軒は家守がいる家であることがわかる。武蔵野新田の記録として重要なものといえよう。
図2-84 「南北武蔵野出百姓草分書出帳」
元文4年9月(史料集12、p.83)、『鈴木家文書目録』口絵より転載。