捺印をめぐる争い

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百姓たちは捺印をめぐって争いを起こすこともあった。享和二年(一八〇二)四月、廻り田新田の百姓徳左衛門は、例年通り三月二八日に、宗門帳と五人組帳の捺印が行われることを承知していたにもかかわらず、私用によって「御用」である捺印を延期し、さらに言い訳などをして捺印を渋ったという。鈴木新田定右衛門ほか二名の取りなしによって詫びている。百姓たちは帳簿への捺印を渋ることもあった。
 また大沼田新田でも、天保一四年(一八四三)九月に、百姓喜助が「田畑一筆小前帳」の捺印を拒むという事件が起こった。これは天保一二年から続いていた喜助と弥左衛門との地所出入に関係しており(本章第七節4)、喜助が土地所持のあり方に抵抗を示したものであった。さらに、嘉永元年(一八四八)四月には、百姓周蔵が五人組帳、留五郎が五人組帳と宗門帳への捺印を拒むという事件が起こった。周蔵の世話による留五郎娘の縁談で、久米川村の藤蔵を婿養子とする話からはじまったものであった。百姓が村を移住する場合は、村や檀那寺の許可が必要であり、これを示した「人別送り状」を作成し、村へ提出しなければならない。名主弥左衛門は下書きを示したが、周蔵はこれに従わなかった。そのため弥左衛門は藤蔵の件を留保し、五人組帳に書き加えなかった。周蔵と留五郎はこれに反発し、帳簿への捺印を拒んだのである。
 いずれの事件も、結局は捺印することで決着しているが、小前百姓が領主への提出文書の捺印を拒みつつ、自らの意思を主張している点はみのがせない。