一七・八世紀の開発をへて、武蔵野にはいくつもの村ができたが、入村してきた者たちは当地でのくらしを維持できず、離村してしまうこともしばしばであった。小川村をはじめとする小平市域の村々で百姓が定着するのは、一八世紀中頃から後半であった。百姓の流動的な状況が克服されたという意味で、各村はこの頃に一応安定化したといえる。とはいえ、彼らがこの地でくらしを維持し、世代を重ねていくこと(当時の言葉では「相続」などと表現される)は、なお容易ではなかったため、さまざまな努力や試みが展開されることになった。
そうしたなかで、たとえば小川村の場合、百姓は開発人の小川家ばかりでなく、村という共同組織に拠りながらくらしを維持するようになってきていた。これにともなって、小川家と百姓の格差は縮小し、村の「均質化」が進んだ。しかし、本章のおもな叙述の対象となる一九世紀前半には、百姓の間に貧富の差という新たな格差が生じることになった。程度の差はあろうが、同様の動向はほかの村でも当てはまる。そこで、本節では、百姓の間に貧富の差が広がっていくようすと、それへの村の対応について記述する。まずは、百姓の階層分化が生まれる前提を、生産と生活の高まりという点からみていくこととしよう。