金肥の導入と商品生産

595 ~ 596 / 868ページ
農業生産力が上昇する重要なきっかけの一つとなったのが、金肥(きんぴ)の導入である。金肥とは、堆肥・ふん尿などの自給肥料に対して、代金を支払って購入する肥料のことで、干鰯(ほしか)をはじめとする魚肥(ぎょひ)、油糟(あぶらかす)(菜種油や胡麻油をなどを絞る際に出る)、糠(ぬか)などがあった。これらのうち、畑作地域である武蔵野でおもに用いられるようになったのは糠であった。
 肥効率の高い糠は、それまで用いられてきた下草(草肥(くさごえ))に代わり、武蔵野地方の村々に急速に普及していった。それにより、下草を採取する場所であった武蔵野の、農業経営にとっての重要性は低下し、享保期の開発が可能となった。また、享保期の開発が武蔵野を消滅させたことが、当地方の村々における金肥依存を必然的なものとした。こうして、当地方の百姓たちは、農産物の穀類を江戸などに運んで販売し、その代金で糠問屋から糠を購入するようになった。
 もともと、武蔵野地方では、畑に課される年貢が金納であり、生産物を換金するために早い時期から生産物である穀類の販売が行われていたが(第二章第二節)、糠の導入はこれをいっそう顕著なものとした。すなわち、穀類の商品としての性格は強まり、当地方の村における農業は、自給的なものから、商品作物を生産し、売ることを目的としたものになっていった。それは、村々への商品・貨幣経済の浸透を示すものにほかならなかった。