農間渡世の展開

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商品・貨幣経済の浸透により、村の百姓のなかからは、さまざまな農間渡世に従事する者が現れた。農間渡世(のうまとせい)とは、農間余業(のうかんよぎょう)・農間稼(のうまかせぎ)などともいい、近世の百姓が農作業の合間に営む農業以外の生産ないし商業活動のことを指す。小平市域にあった村々ではどのような農間渡世がみられたのか、鈴木新田を例にみてみよう。
 表3-1は、文政一〇年(一八二七)と天保九年(一八三八)に、幕府が行った農間渡世調査の結果を示したものである。この表から、一八二〇~三〇年代の鈴木新田には、飲食物や日用雑貨類、変わったものでは雛人形祝道具を扱う商人のほか、紺屋(こんや)や髪結い、大工・茅屋根・綿打の職人などがいたことがわかる。うどんや蕎麦(そば)など、飲食物をあつかう者が多いのは、このころに「小金井桜」が名所として観光地化していたことによる。
表3-1 鈴木新田における農間渡世(18世紀後半~19世紀前半)
No.肩書名前業種開始年
1百姓勘兵衛酒・醤油・うどん・蕎麦・荒物諸色安永7年(1778)
2組頭吉兵衛酒・醤油・穀物・荒物・紙・木綿類安永7年(1778)
3百姓兵左衛門豆腐屋寛政10年(1798)
4百姓作右衛門荒物・小間物諸色寛政10年(1798)
5百姓権兵衛酒・醤油・荒物・木綿類寛政8年(1796)
6百姓源八酒・醤油・うどん・蕎麦寛政5年(1793)
7百姓治郎右衛門菓子小売文化5年(1808)
8百姓平七素麺拵文化5年(1808)
9百姓弥平治雛人形祝道具文化5年(1808)
10百姓彦八酒・醤油・うどん・蕎麦・荒物文化5年(1808)
11百姓清次郎糸繭・紫根中買、酒・醤油・うどん文化5年(1808)
12百姓文右衛門うどん・蕎麦文化12年(1815)
13組頭庄治郎酒・醤油・小間物文政元年(1818)
14百姓鉄五郎青物売買(時々)文政元年(1818)
15百姓藤右衛門糸綿商売文政元年(1818)
16百姓升五郎豆腐造り文政元年(1818)
17百姓織右衛門肴売文政元年(1818)
18百姓由太郎うどん・蕎麦文政元年(1818)
19百姓直右衛門荒物・釘・鉄物類文政元年(1818)
20百姓千蔵青物売買(時々)文政3年(1820)
21百姓磯右衛門古着屋文政3年(1820)
22百姓幸治郎紺屋文政4年(1821)
23百姓久五郎古道具屋・箱物類文政6年(1823)
24百姓久右衛門豆腐造り文政6年(1823)
25百姓七左衛門菓子屋文化元年(1804)
26百姓又右衛門大工職天明8年(1788)
27百姓彦四郎茅屋根職人享和3年(1803)
28百姓万五郎大工職文化10年(1813)
29百姓彦治郎茅屋根職人文政元年(1818)
30百姓伊平治綿打職人文政元年(1818)
31百姓佐兵衛髪結床(1軒)寛政10年(1798)
32百姓庄兵衛穀物商売天保7年(1836)
33百姓弥右衛門薬種商売天保7年(1836)
34百姓平助青物売買(時々)天保7年(1836)
天保9年7月「武蔵国多摩郡田無村組合之内鈴木新田諸商渡世向取調書上」(史料集19、p.120)をもとに作成。

 人数に注目すると、文政一〇年時の調査で把握された農間渡世の者は三一名(No.1~31)、天保九年時の調査ではさらに三名(No.32~34)が追加されている。このころの鈴木新田の戸数は一〇九軒であるから、農間渡世に従事していた百姓の割合は全体の約三〇%に上ることになる。なお、全体の三割という高さは鈴木新田に特徴的で、同じころの小川村では約一一%、大沼田新田では約一八%の百姓が農間渡世に従事していた。
 また、これらの農間渡世が開始された年代をみると、最も早いのはNo.1・2の安永七年(一七七八)で、多くは文化・文政年間(一八〇四~二九)に集中している。したがって、鈴木新田では、一八世紀後半から農間渡世に従事する者が現れ、一九世紀前半にその数が急増したといえる。このことは、当村に商品・貨幣経済が浸透し、一九世紀前半にかけて、その度合いが深まっていったことの現れであり、小平市域にあった他村にも、おおむね当てはまるものであった。
 以上、鈴木新田を例に、一八世紀後半以降成立してきた農間渡世を眺めてみたが、他の村では、たとえば酒造業や水車稼ぎといった農間渡世がみられ、後者の水車稼ぎは、一八世紀後半に鈴木新田を含む各村で成立し、以降、これに従事する者の数が増えていったことは、すでに述べたところである(第二章第六節)。また、小川村の村明細帳(むらめいさいちょう)には、農業以外の稼ぎとして、男は荷物(炭・薪)を馬で輸送して賃金をえる駄賃稼ぎ、女は自家消費用の薪採取と、幕末からは木綿布織が記載されている。このように、一八世紀後半以降、多くの百姓がさまざまな農間渡世に従事して現金収入を獲得し、生活を向上させていった。一八世紀後半以降、幕府の法令や村議定(村法)で百姓らの「奢侈(しゃし)」が問題とされるようになるが、それは、この点と深くかかわっていた。