「有徳の百姓」とは何者か

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商品・貨幣経済が浸透した武蔵野地方の村々で成長してくるという「有徳の百姓」とは、一体どういう者なのか。まずは、一八世紀末の寛政二年(一七九〇)八月に行われた、多摩郡の武蔵野地方二五か村による、糠値段の引き下げを求める訴願運動から、当時の状況とともに、「有徳の百姓」のすがたをみておこう。なお、この訴願には、野口村の名主勘兵衛(かんべえ)とともに、小川村の名主弥四郎(やしろう)が惣代として関与していた(史料集一九、四三頁)。
 すでに述べたように、武蔵野地方の村々では当時、肥料の糠を購入し、作物の雑穀を売る農業が行われていた。そのため、糠相場が高騰したり、雑穀相場が下落したりすると、百姓は困窮の危機に陥ることになった。二五か村の百姓が直面していたのも、まさに同じ危機であり、彼らがどれほどがんばっても、作物の穀類を売り払ってえた代金から肥料の糠の代金を差し引くと、手取り分はなくなってしまうという状況であった。こうした状況になった原因について、二五か村の願書は克明に記しているが、その内容をまとめると、大略、次のようになる。
 すなわち、「糠商人」ならびに「村々有徳の百姓ども」が、春に糠を買い占めて置き、麦を植える頃の施肥期に申し合わせて、高値で百姓に売っている。このとき、困窮している者は代金を払えず、収穫された穀物(ないしその販売代金)で返済する者もいる。穀物の収穫時に「商人ども」は村々を廻り、麦をはかり立て、受け取っていく。このような方法で購入する肥料は通常より高値になり、肥料代としての穀物は安く引き取られることになる。その結果、百姓は多大な借財を抱え、困窮してしまう。二五か村の百姓らは幕府に対し、「糠商人」「有徳の百姓」たちの右のような糠取引をやめさせるよう訴えたのである。
 ここから、「有徳の百姓」は「糠商人」とともに、糠の価格を引き上げ、穀物の価格を引き下げて、百姓たちを困窮させる原因を作っている存在と目されていることがわかるが、「商人」とか「最寄村々糠商人ども」などと一括して表記されてもいることから、同一の存在を指しているものとみてよい。彼らは、種蒔き時に糠を高値で売り、その代価として穀物を安い値段で回収することによってより多くの穀物を獲得した。そして、それを江戸などで販売することによって利益を上げていた。つまり、肥料である糠を買い、生産した穀類を売るという当時の農業生産のサイクルを、彼らはまさに仲介していたのである。
 このように、「有徳の百姓」とは、当時の農業生産のあり方に立脚して商業活動を展開し、成長してきた者たちであった。彼らは、自分の土地で農業を営む一般的な百姓(自作農)としての性格を基礎にして、当地方の商品である穀物生産に不可欠な肥料を販売したり、穀物を買い集めたりする商人としての性格、集めた穀物を水車で製粉する水車稼人としての性格、そして、土地を質にとって百姓に金を貸し付ける利貸し、それを通じて質草の土地を集積する地主(質地地主)としての性格をあわせ持っており、その経営は多岐にわたっていた。彼らのような存在については従来、「在方(郷)商人(ざいかた(ごう)しょうにん)」「豪農(ごうのう)」などの呼称が用いられてきたが、以下では「豪農」を用いることとする。