両家のうち當麻伝兵衛家は、一八世紀後半以降、経営を多角化させており、寛政一一年(一七九九)の村明細帳には、同家が「水車・油紋(ママ)・糠売・銭質小商ひ」を営んでいたとある(史料集一、九九頁)。ここでは、様子が比較的わかる伝兵衛家の糠取引と、土地所有について注目する。
まず、糠取引からみると、同家は、江戸の糠商人たちから糠を購入しており、それを居村や周辺村の百姓に貸し付け、収穫された穀物で返済させていた。伝兵衛家が行っていたこのような取引(糠貸付)のうち、証文類が残っている取引事例を一覧として示したのが表3-2である。
表3-2 當麻伝兵衛家の糠貸付(安永7年~寛政8年) | ||||||||||
No. | 年代 | 月 | 借主村 | 借主 | 糠種類 | 数量(俵) | 代金(両) | 返済期限 | 返済穀物 | 利足 |
1 | 安永7(1778) | 8 | 大沼田新田 | 孫兵衛 | 尾張糠 | 2 | 0.3226 | 2月 | 2割半 | |
2 | 天明5(1785) | 4 | 野中新田 | 七右衛門 | 地糠 | 6 | 0.822 | 9月 | 荏胡麻 | |
3 | 天明5(1785) | 4 | 野中新田 | 平次郎 | 地糠 | 5 | 0.685 | 9月 | 荏胡麻 | |
4 | 天明5(1785) | 4 | 野中新田 | 長右衛門 | 地糠 | 8 | 1.0959 | 9月 | 荏胡麻 | |
5 | 天明5(1785) | 4 | 野中新田 | 伝右衛門 | 地糠 | 4 | 0.5479 | 9月 | 荏胡麻 | |
6 | 天明5(1785) | 4 | 野中新田 | 喜八 | 地糠 | 4 | 0.5555 | 9月 | ||
7 | 天明5(1785) | 9 | 小川新田 | 文助 | 尾張糠 | 6 | 1.363 | 6月 | 小麦 | |
8 | 天明5(1785) | 9 | 野中新田 | 徳兵衛 | 尾張糠 | 6 | 1.25 | 6月 | 小麦 | |
9 | 天明6(1786) | 4 | 野中新田 | 喜右衛門 | 地糠 | 5 | 0.7575 | 9月 | 荏胡麻 | |
10 | 天明6(1786) | 4 | 野中新田 | 八郎兵衛 | 地糠 | 3 | 0.495 | 9月 | 荏胡麻 | |
11 | 天明6(1786) | 4 | 野中新田 | 太郎兵衛 | 地糠 | 8 | 1.154 | 9月 | 荏胡麻 | |
12 | 天明6(1786) | 7 | 小川新田 | 卯左衛門 | 尾張糠 | 10 | 2.3256 | 6月 | 小麦 | |
13 | 天明6(1786) | 9 | 野中新田 | 長右衛門 | 尾張糠 | 3 | 0.8108 | 6月 | 小麦 | 2割半 |
14 | 天明6(1786) | 9 | 野中新田 | 紋右衛門 | 地糠 | 6 | 1.1538 | 6月 | 小麦 | 2割半 |
15 | 天明6(1786) | 9 | 野中新田 | 平次郎 | 地糠 | 6 | 1.1538 | 6月 | 小麦 | 2割半 |
16 | 寛政元(1789) | 8 | 鈴木新田 | 市左衛門 | 尾張糠 | 6 | 1.4285 | 6月 | 小麦 | |
17 | 寛政元(1789) | 8 | 野中新田 | 卯兵衛 | 尾張糠 | 4 | 1 | |||
18 | 寛政2(1790) | 4 | 野中新田 | 八郎兵衛 | 地糠 | 4 | 0.5 | |||
19 | 寛政8(1796) | 9 | 野中新田 | 平次郎 | 尾張糠 | 4 | 0.8695 | 6月 | 小麦 | |
20 | 寛政8(1796) | 9 | 小川新田 | 十右衛門 | 尾張糠 | 4 | 0.8696 | 6月 | 小麦 | |
松沢裕作『明治地方自治体制の起源』p.140の表をもとに作成。 |
安永七年(一七七八)から寛政八年までの、全二〇件の糠貸付が確認でき、貸付方法には、四月に糠を貸し付け、九月に荏胡麻で返済させる方法と、九月に糠を貸し付け、翌年六月に小麦で返済させる方法の二通りがあったようである。貸付先の村名をみると、野中新田・小川新田・鈴木新田という近隣の村々が目立つ。居村である大沼田新田の百姓への貸付は、No.1の事例のほかにはみられないが、安永五年(一七七六)に伝兵衛は、同新田の七名の百姓が糠代金の支払いを滞らせているとして訴訟を起こしているので、居村でも糠貸付を行っていたと考えられる(利率は判明する限りで二割半)。したがって、伝兵衛家は、居村と近隣の二~三か村を対象に糠貸付を行っていた。
つぎに、伝兵衛家の土地所有についてみると、一八世紀後半以降における同家の所持地の増減傾向は、図3-1の通りである。本図から、安永~寛政年間(一七七二~一八〇〇)にかけて、伝兵衛家の所持地が急速に増加していること、しかし、一九世紀に入ると、所持地が減少していることが読み取れる。すなわち、伝兵衛家のような糠商人としての性格を有する豪農が、土地を一貫して集積、成長していたわけではなかった。このことは、同家が百姓に対し、常に有利な値段で糠を売ったり、穀物を買ったりすることができたわけではなく、百姓の経営動向によっては、必ずしも有利でない取引を強いられることがあったことを示唆するものだろう。
図3-1 當麻弥左衛門・伝兵衛家の所持高変遷 各年の宗門人別帳より作成。 |