一方、當麻弥左衛門家は、やはり一八世紀後半には水車稼ぎを行い、文政四年(一八二一)には水車稼ぎとともに酒造・醤油造りを営んでいた。酒造は文化七年(一八一〇)に願い出て許可され、最盛期の酒造高は一〇七〇石になった。さらに、八王子(現八王子市)・青梅(現青梅市)・五日市(現あきる野市)に三軒の支店を出すにいたるが、嘉永四年(一八五一)三月の火事で、居宅・酒造蔵・肥小屋・厩(うまや)・水車などが焼失した。水車と醤油造りは七月までに再開されたが、酒造は酒造蔵と諸道具が焼失したこともあって再開されることはなく、酒造の権利(株)も村外の者に貸し出し・譲渡された。また、安政七年(万延元年・一八六〇)には、醤油造りの権利もほかに貸し出された。このように、弥左衛門家は一八世紀後半以降、経営を多角化させていくが、幕末期には火災の影響もあり、酒造と醤油造りが中止された。
つぎに、弥左衛門家の土地所有についてみると、一八世紀後半以降における同家の所持地の増減傾向は、伝兵衛家とともに図3-1に示した通りである。弥左衛門家の所持高は当初、伝兵衛家よりも小さく、寛政五年(一七九三)にはさらに所持高を減らす。しかし、文化・文政年間(一八〇四~三〇)から上昇し、天保~嘉永年間(一八三〇~五三)に急激に増加するが、以降、再び減少している。弥左衛門家の所持高は、伝兵衛家の経営が下降しつつあるのに代わって上昇しはじめたといえるが、とくに天保年間(一八三〇~四四)に集積された土地は、飢饉により困窮した百姓に対し、同家が土地を質に取って資金援助した結果であった。それゆえに、小作料の滞納があっても、もとの持ち主から土地を取り上げることが容易にできないなど、弥左衛門家にとって、必ずしも有利な取引ではなかった。なお、幕末期に弥左衛門家の所持高が減っているのは、これらの土地が、もとの所持者に請け戻されたことによる。
以上のように、當麻伝兵衛家・弥左衛門家は、一八世紀後半から経営を多角化させ、水車稼ぎや糠取引、酒造など諸商いに従事するとともに、土地集積を進めた。しかし、百姓の救済措置などのために、両家にとって必ずしも有利でない、不本意な取引を強いられることもあり、両家の経営は百姓の経営動向に左右される、不安定なものであった。そのため、両家のような豪農は、雑穀を売り、糠を買って行われる百姓らの農業生産が安定的に営まれることを望んでいたのであり、自らの利益のみを追求できたわけではなかった。