小川家の御用商人的活動

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當麻伝兵衛家と弥左衛門家のような豪農は、糠取引や水車稼ぎなどを通じて、当地の農業生産と深くかかわって展開していたが、これとは異なるかたちで経営活動を展開した者もいた。それが、小川村名主の小川家である。この項の最後に、豪農との比較も兼ねて、小川家の経営活動の内容や特徴を確認しておく。
 小川家は、宝永三年(一七〇六)に酒造業を開始し、現在の青梅市の成木地域における石灰生産者には、小川村開発の頃より資金援助を行っていることが確認され、宝暦一二年(一七六二)には上直竹村の石灰焼立の金主になるが、明和二年(一七六五)に退役している。比較的早い時期から農業以外の商売に関与していたといえるが、この頃よりのちに展開される、同家の経営活動を示すと、表3-3のようになる。
 
表3-3 小川家の経営活動(18世紀後半~)
開始/期間活動
明和2年(1765)水車稼ぎ
明和7年(1770)玉川上水の通船計画
明和9年(1772)関東8か国の質屋運上取立の請負(質屋に所定の台帳を販売)
寛政3・4年(1791・92)下野国芳賀郡嶋村ほか三か村(現栃木県真岡市)の荒地再開発の請負
寛政7~享和元年(1795~1801)遠江国周智郡・信濃国伊那郡からの材木伐出しの請負
寛政8~文化2年(1796~1805)相模国津久井郡からの材木伐出しの請負
享和元~3年(1801~03)出羽国村山郡の延沢銀山(現山形県尾花沢市)開発の請負
文化2年(1805)武蔵国比企・秩父・多摩郡六か村の松雑木御林からおよそ121,600俵の炭を焼き立て、江戸へ廻送する御用請負
文政7年(1824)日光社参御用人馬の請負
天保7年(1836)常陸国鹿島郡立原村(現茨城県鹿島市)の百姓林から松・楢・雑木を買い請け、8万束の薪を江戸本所御林炭会所柳原新し橋置場に納入する御用の請負

 
 本表から、一八世紀後半以降の小川家の経営活動は、おもに村外で展開されており、幕府の事業・御用を請け負うものが大半を占めていることがわかる。ここでは、関連する文書が最も多く残されている、寛政七~享和元年(一七九五~一八〇一)の遠江国周知郡山住神領山(現静岡県磐田郡水窪町)と信濃国伊那郡坂部村百姓林(現長野県下伊那郡天龍村)を対象とした材木伐出しの御用請負について、概要を説明する。
 これは、信・遠両国の天竜川沿いにあった二か所の山林から木を伐り出したり、板などに製材したりして、幕府に購入してもらうというものである。寛政六年(一七九四)末から小川東吾がこの事業の請負を幕府に願い出ていたようで、翌年一一月に許可された(図3-2)。そして、小川新田名主弥市らの地所一〇六町余を抵当に、一〇〇〇両の前借金が認められ、これを資金として木の伐出しが開始された。

図3-2 東吾と証人より幕府に提出された材木伐出しの御用請負証文
寛政7年11月「(買木御用請証文)」(小川家文書)

 予定では寛政九年までに、すべての材木を納めることになっていたが、川下げに使った天竜川が洪水となって材木が二度ほど流失するなどの理由で、指定された材木を期限内に揃えることができなかった。結局、不足分は、江戸の材木商人から購入して何とか幕府に納品され、享和元年(一八〇一)に事業は終了する。二度の材木流失事故によって「御用向も相勤めがたき」状況に陥るなど、この事業は、小川東吾の目論見通りには進まず、利益をあげることはできなかった(小川家文書)。
 このほかの活動でも、成功して大きな利益を上げたことが確認されるものはなく、たとえば、寛政三・四年の下野国芳賀郡四か村(現栃木県真岡市)の荒地再開発は計画段階で、享和元~三年(一八〇一~〇三)の出羽国村山郡の延沢銀山(のべさわぎんざん)(現山形県尾花沢市)開発は試掘段階で頓挫し、文政七年(一八二四)の日光社参(にっこうしゃさん)の御用人馬の請負などは、実際に許可されたのかどうかも不明である。
 以上のように、一八世紀後半以降、小川家は幕府の事業・御用の請負を中心に経営活動を展開しようとするが、いずれも失敗ないし計画倒れに終わったといえる。小川家の経営は、水車稼ぎを営むも、さきにみた、豪農としての當麻伝兵衛・弥左衛門家の場合とくらべて、当地の農業生産のあり方とさほどの関係がなく、この点で特徴的である。それゆえか、小川家には目立った土地集積が確認できず、六町余の名主免除地が重要な経済基盤であり続けたようである。
 小川家の経営は、投機的な性格の強い経営ということになるが、同家が、このように幕府の御用請負に固執した一因は、それによって得られる特別な格式ゆえだろう(第二章第八節)。すなわち、御用請負は、「均質化」が進む村のなかで、ほかの百姓との差異を際立たせようとしていた小川家にとって、経済的な利益と特別な格式の両方を獲得できる好機であった。広く各地を舞台とし、多岐にわたる同家の御用請負を中心とした経営活動は、当時の当主たちの個性や志向性もさることながら、小川家という家が、村で直面していた課題に対応するものだったのである。