小川村では、一七世紀後半に、生産された瓜を名主小川家の主導により江戸に販売していた。その後も当村では、瓜をはじめ青物(野菜類)が作られるが、その主な販売先は変化していたようである。
触・廻状(かいじょう)を書き留めた御用留(ごようどめ)によると、天保四年(一八三三)六月に、小川村や鈴木新田、野中新田(「南野中新田」)など一〇か村からなる組合村と、八王子横山宿(よこやましゅく)(現八王子市)の問屋たちの間で、「青物売り捌(さば)き方」をめぐる争論が起こっている(小川家文書)。この争論はほどなく解決し、六月二四日には、係争中ゆえに取り止めていた青物の出荷再開と、争論にかかった経費の割り当てが、小川・小川新田(組合には含まれていない)・鈴木新田の名主らに通達された。また、小川村の開発経緯を代官江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)に上申した、安政四年(一八五七)の「小川村起立書上扣」には、当村で蕎麦や前栽物(せんざいもの)(青物)を作り、「青梅・八王子・府中辺」で売っている、とある(史料集一二、四四頁)。
このように、近世後期には、小川村など小平市域にあった村々では、青物を八王子や青梅・府中に出荷・販売していた。江戸へ出荷されなくなるのは、青物栽培に用いられたとみられる下肥が江戸から運ばれなくなる、一八世紀後半から末にかけてであろう。すなわち、この頃、小川村をはじめとする武蔵野地方の村々は、青物という生鮮食料品の分野で、江戸市場から後退した。
一方で、金肥の糠が普及し、村々に商品・貨幣経済が浸透してくると、百姓らは江戸で、生産した雑穀を販売し、その代金で糠を購入するようになる。これにより、武蔵野の村々と江戸との関係は深まっていくが、各地で成長してきた豪農たちの活動は、双方の関係を大きく変化させる。以下、雑穀を挽いて加工した粉の販売から、そのようすをみていくこととする。