問屋への対抗

608 ~ 609 / 868ページ
武蔵野の村々では小麦や蕎麦が多く作付けされていた。収穫された小麦や蕎麦は当初、手回しの石臼で粉に挽かれたが、一八世紀後半から水車を用いた製粉が発達してきた。水車で製粉を行っていたのはおもに豪農で、彼らは村々の百姓たちから雑穀を買い集め、水車で製粉しては、江戸に売り込んでいた。
 これらの独占的な集荷を公認されていたのが江戸の米穀問屋(とくに、関東・東北地方から江戸に入る米俵を扱っていた奥筋地廻(じまわり)米穀問屋壱番組雑穀仲間三六人)で、豪農をはじめとする武蔵野の百姓たちは、江戸市中の粉商売の者に、粉を直接販売することはできなかった。こうした粉販売の方法は問屋側に有利であり、彼らが粉の買入値段を不当に引き下げたり、代金の支払いを引き延ばしたりする原因となった。そのため、水車稼ぎを行い、粉を江戸に売りに行く豪農たちの問屋に対する不満がしだいに高まり、自分たちの不利な立場を是正するための運動が展開されることになった。
 文政二年(一八一九)五月、三五名の水車稼人たちが、近頃粉の値段が下落し、仕入れる小麦の価格に引き合わないため困窮しているとして、一同相談のうえ、五月二〇日から三〇日間の水車操業を休み、さらに、休業期間中に問屋から条件のよい値段を提示されても、勝手に操業を再開せず、皆(「仲間」)で相談すること、これらを破った場合は水車を取り払い、仲間を除名することが取り決められている(史料集二六、四四頁)。なお、仲間の三五名のうち、現在の小平市域にあった村の者は表3-4の一三名である。
表3-4 水車稼ぎ人仲間(現小平市域)
No.村名名前備考
1大沼田新田弥左衛門名主
2大沼田新田伝兵衛年寄
3小川村小太夫名主
4小川村俊蔵年寄、小川新田名主
5鈴木新田吉兵衛組頭
6鈴木新田幸七組頭
7鈴木新田長右衛門組頭
8鈴木新田又右衛門組頭
9鈴木新田宇八 
10野中新田善左衛門名主
11野中新田仁左衛門組頭
12野中新田九郎兵衛 
13廻り田新田庄兵衛組頭
文政2年5月「議定之事」(史料集26、p.44)をもとに作成。

 粉の値段が下落した原因は、水車が増えて、水車稼人の間の競争が激しくなったことと、彼らの売り込み先である中野・淀橋・成子・新町・新宿の問屋が申し合わせて、粉の買入値段を引き下げていたことがあったようである。そのため、豪農を主とする水車稼人は、同業者間の競争を防止するとともに、皆で一斉に水車操業を休むことによって、問屋に粉の買入値段の引き上げを要求したのである。
 この結果、問屋側から、①今後粉を買い入れる際は、「叺代(かますだい)」つまり粉の貯蔵・運搬に用いる、わらむしろで作った袋の代金として、粉二石につき銀五分ずつを、粉買入値段とは別に支払う、②代金は荷物が到着次第すぐに支払う、③前金での支払いはその都度相談する、④粉の買入は従来取引してきた水車稼人に限る、という対応を引き出しており、水車稼人らの運動は一定の成果を上げた(史料集二六、四五頁)。