粉の直接販売を求めて①-文政一一年の争論-

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右の一件をへても、水車稼人が問屋に対して不利な立場にあること自体が、抜本的に変わったわけではなかった。そのため、水車稼人は、問屋を介さずに、江戸での粉の直接販売(当時の言葉では「直売」と書く)を望むようになった。これを実現したのが、野中新田の重右衛門である。
 文政一〇年(一八二七)、彼は江戸麹町一一丁目(現千代田区)の太兵衛という者の店舗で、粉の販売を始めた(その際、弥五左衛門と名のるが、以下では重右衛門で統一する)。当然、このことは、江戸の問屋の反発を招き、翌年に江戸町奉行に訴えられた。その際に、重右衛門が問屋の主張に対して行った反論によれば、彼が江戸で出店を営むにいたった経緯とは、大略、つぎのようなものであった。
 すなわち、重右衛門はもともと居村で、近隣村々の小麦・蕎麦を買い受け、水車で製粉し、内藤新宿四谷の問屋に販売していた。そして、その代金で水車の営業税にあたる運上や年貢を納め、生計を立ててきた。しかし近頃、問屋の代金の不払いが多くなり、なかには、そのまま廃業してしまう者もいるなど、重右衛門や武蔵野の水車稼人たちは、水車運上や年貢の上納にも支障が出る事態に陥った。それゆえ、重右衛門が「近村の水車人惣代」となり、江戸麹町の太兵衛の店舗で、粉商売を営み当時休業中であった与蔵の跡式を譲り請け、文政一〇年八月中より小麦粉・蕎麦粉の販売をはじめたという。
 このように、重右衛門は、問屋の代金不払いに苦しむ、村々の水車稼人の惣代として、江戸に出店を構え、粉の直売を始めた。この行動について、問屋側は、重右衛門が江戸における穀物の独占売買が認められた問屋仲間(株仲間)に入っていないとして、彼の粉販売の不当性を訴えた。これに対して重右衛門は、自分が販売しているのは小麦粉・蕎麦粉になった「抜」というものだけである、そして、江戸には自分と同じ商売を営む者が大勢いるが、いずれも問屋仲間に入っていない、と反論した。つまり、重右衛門の扱う粉と問屋に独占売買が認められた穀物は違うものであり、それゆえに自分の粉販売は何ら不当なものではないというのである。
 結局、文政一一年九月に、粉と穀物を違うものとする重右衛門の主張に沿って、双方の間で内済(ないさい)(示談)が成立した。その際、重右衛門は、粉類のみを扱うこととし、雑穀はもちろん、蕎麦の実・殻とも扱わないことを問屋側にあらためて約束している。こうして、小麦粉や蕎麦粉を、問屋を介さずに直接江戸に販売することが、不当・違法な行為ではないことが公式に確認され、江戸の問屋に対する、武蔵野の水車稼人らの不利な立場が是正される重要な根拠となった(『公用分例略記』、二四八頁)。