地廻米穀問屋が再興されてしばらくのちの安政三年(一八五六)、武蔵野の水車稼人との間に紛争が起こった。野中新田の仲右衛門(重右衛門の分家)は水車稼ぎを営み、江戸の粉を扱う者たちに販売して生計を立てていたが、同年四月に馬子を使って、うどん粉を市ヶ谷(現新宿区)まで運ばせていた。その途中、柏木淀橋町(現新宿区)を通りがかったところ、同町で穀物問屋を営む利兵衛が現れ、馬子(まご)に判取帳(はんとりちょう)(商品授受の証印を記した帳面)をみせるよう言ってきた。そこで、馬子が判取帳を渡したところ、そのままこれを取り上げてしまった。驚いた仲右衛門が利兵衛に掛け合うと、利兵衛は、このたびの株仲間再興により、地廻米穀問屋が再結成されており、粉類も雑穀類のうちに含まれるので、問屋を介さない江戸直売はできないとして、判取帳の返却に応じなかった。
それゆえ、安政三年五月、仲右衛門は、粉を江戸に直接売り込むことができる自由を改めて確認すべく、勘定奉行所に訴え出た。もっとも、この訴訟は仲右衛門一人ではなく、当時、水車稼人の中心的人物であった下田半兵衛(田無村名主)と相談のうえで行われた。相手の利兵衛の言い分は、仲右衛門のみならず、武蔵野の水車稼人全体の利害にかかわるものだったからである。
この訴訟は結局、同年六月に、仲右衛門と地廻米穀問屋の間で内済が成立した。その内容は、①嘉永四年の株仲間再興後は、米穀問屋以外が雑穀を江戸で直売することは禁止されている、②仲右衛門の判取帳には、株仲間再興後の安政元年に、江戸で粟四俵を販売した記録があったが、これは違法行為で、今後このようなことはしない、③現在奉行所で調査中である、粉類の江戸直売の可否という問題は大きな問題で、利兵衛個人を訴える事がらではないため、仲右衛門が訴えを取り下げる、というものであった。つまり、粉類の江戸直売については、明確な結論が出されなかったのである(調査中は現状どおり、問屋以外にも粉類の江戸直売が認められた)。
なお、これと並行して今一つ、訴訟が進行していた。それは、安政三年四月に、地廻米穀問屋壱番組行事で、本町二丁目(現中央区)喜兵衛地借(じがり)(借地人)の半七という者が、仲右衛門と砂川村(現立川市)七郎右衛門を相手取り、江戸町奉行所に出訴したというものであった。やはり、両名による雑穀の江戸直売が争点となったものであるが、この訴訟が六月に内済された際も、問屋以外の雑穀直売の禁止が確認されたが、粉類の扱いについてはとくに言及されていない。
以上にみた訴訟は、いずれも内済が成立したが、今後の調査によっては、雑穀とともに粉類の江戸直売についても禁止される可能性があった。そこで、安政三年七月に、武蔵野の三二か村六一名の水車稼人たちは惣代を立てて、勘定奉行所に、粉類の江戸直売をこれまでどおり認めるよう願い出た。その要点は、おおよそつぎのようなものであった。
すなわち、①水車稼人たちは農間余業として、蕎麦や小麦を買い入れて水車で製粉し、これを江戸の蕎麦屋や菓子屋など粉を扱う者に販売してきた。②文政一一年(一八二八)の争論のときの済口証文(すみくちしょうもん)(示談書)で、雑穀と粉は別のものであり、江戸へ直売してさしさわりないとされている。ゆえに、粉類の江戸直売は、天保一四年の株仲間解散令によって始まったのではなく、それ以前に地廻米穀問屋がまだあった頃から行われていた。③万一、粉類の直売禁止となれば、問屋側の価格操作で粉値段が高騰するであろうし、水車稼人の経営も悪化して、年貢や運上の上納も難しくなり、水車稼人に小麦などを売る百姓も困窮してしまう。④これまで扱ってきた実蕎麦が雑穀に準ずるのであれば、その直売が禁止されても仕方ないが、粉類については、従来どおり江戸直売を認めてほしい。
以上のような水車稼人たちの嘆願は、勘定所の取り調べをへて、容れられることとなり、同じ年の一二月に、①粉類の直売は水車稼人の願い通り、勝手次第に江戸で行ってよい、ただし雑穀の直売はしてはならない、②このことは、嘆願に加わった六一名だけでなく、近隣の水車稼人にも申し聞かせよ、という決定が下された。こうして、武蔵野の水車稼人たちは、粉類の江戸直売の自由を確立していった。
図3-3 「粉名(こな)直売差障出入」
粉の江戸直売をめぐる争論の関連文書が筆写されている
(小平市中央図書館所蔵、伊藤文庫)。