小川村における階層分化

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村では豪農が成長する反面、土地を手放し、困窮していく百姓たちもいた。百姓の間に持つ者と持たざる者の差、貧富の差が生まれ、広がったのである。このような状況下、村が百姓(とくに困窮百姓)のくらしの維持に重要な役割を果たした。そこで、以下では、小川村を主な事例として、広がる格差の中で村が果たした役割をみていく。まずは、小川村の百姓たちの階層が分化していく様子を表3-7によって確認しておく。この表は、百姓がそれぞれ所持する土地の面積(反別)を基準にして、小川村の百姓の階層とその推移を示したものである。
表3-7 小川村階層構成単位:人
所持反別宝永7(1710)安永6(1777)天保2(1831)嘉永7(1854)
5町以上72516
4-5町2387
3-4町1191719
2-3町60604334
1-2町991156562
1町以下272275119
合計206211213257
『小平町誌』pp.271-272の図をもとに作成。

 それによれば、安永六年(一七七七)までは、当村のほとんどの百姓が一~三町の土地を所持していることがわかる。しかし、天保二年(一八三一)・嘉永七年(安政元年・一八五四)になると、一~三町規模の土地所持者が大幅に減り、かわりに五町以上と一町以下の土地所持者が増えている。つまり、多くの土地を持つ者とわずかな土地しか持たない者が現れたということであり、ここに百姓の階層分化を認めることができる。
 土地を集積していった者のうち、主だった何名かの素性について、嘉永七年段階の所持反別とともに確認しておくと、一八町余を所持していた勝五郎(立川家)は酒造業を、一〇町余を所持していた鶴蔵(金子家)は酒造・商業を、九町余を所持していた佐右衛門(浅見家)は農間に醤油造り・商業を、それぞれ営んでいた。また、五町歩以上の階層ではないが、文久元年(一八六一)に四町九反余を所持していた熊右衛門(宮寺家)は、酒造業を営み、江戸から南武蔵野一帯を取引範囲としていた。このように、小川村で土地集積を進めたのは、農業とともに、醸造業やさまざまな商売に携わる豪農であった。
 小川村における百姓の階層分化、つまり豪農らの土地集積は、一九世紀前半の文化・文政年間(一八〇四~三〇)ころを起点とし、凶作・飢饉が続発した天保年間(一八三〇~四四)に急速に進んだ。小川村ではとくに、天保二・四・七年(一八三一・三三・三六)に「格別の違作(いさく)」「稀の凶作(まれのきょうさく)」などと記されるような事態となっており、これをきっかけにして、多くの百姓が当座の生活資金を得るために土地を手放し、豪農から金を借用した(史料集一八、二六二・七頁)。その結果、豪農のもとには多くの土地が集積されることになったが、このことは豪農にとって望ましい事態とばかりはいえなかった。すなわち、彼らの土地集積は、利益をえるというよりも、危機に瀕した百姓の当座の助成のため、生活資金の貸与を行った結果でもあり、大沼田新田の當麻弥左衛門家の場合と同様の事情があった。