まず、それまで凶作時の備えとして蓄積してきた貯穀が取り崩され、個々の百姓に配分された。取り崩されたのは天保四年(一八三三)の凶作時で、稗三六四石四斗五升二合。これを翌五年から、五か年賦(一年につき七二石八斗九升九勺)で詰め戻していく予定で、貯穀の取り崩しが実施された。
第二に、幕府からの夫食(ふじき)拝借である。天保五年三月、前年の凶作を受け、名主の小川小太夫は代官所に願い出て、金六五両一分と永二一六文七分の拝借を認められた。返済条件は、翌年から五か年賦(一年につき金一三両と永九三文四分)であった。
この夫食拝借金は、それまでのように、単に個々の百姓の所持反別に応じて分けるのではなく、まずは店借(たなが)り(自分の屋敷を所持していない借家人)の者二四名に金一朱ずつ、そして、これとは別に八名の組頭に金六両ずつが渡されている。八組の戸口・人口は全て同じではないので、個々の百姓への割り渡しにあたっては、各組で何らかの調整が行われていたものと考えられる。なお、代官所への報告では、すべての百姓にほぼ均等に分けたことにされており、このような村内での割渡方法は、正確に報告されていない。これらの金の合計は五九両余で、残る六両ほどの使途は不明であるが、代官所の関知しないところで、村や組が拝借した夫食(金)を、より実情に沿うように割り渡していたことがうかがえる。
そして、第三に、村内の富裕者による救済である。表3-8は、天保四~七年の凶作に際し、困窮者への救済(「救合力」)を行った者(「奇特人(きとくにん)」)の一覧である(小川家文書)。本表によれば、この間に困窮者救済を行った者は一七名を数え、なかには、先に豪農として言及した鶴蔵(No.1)・勝五郎(No.4)・佐右衛門(No.6)の名前も確認できる。困窮者に配布されたのは、食料の小麦・稗・大豆、現金、肥料の糠、の大きく三種類で、配布対象者数は最小で五名、最大で五一名になる。このような現金や救済物資の供出を富裕者にうながし、困窮者に分配したのが村であった。
表3-8 天保4~7年凶作時の救済者 | |||||||||
No. | 供出者 | 肩書 | 小麦 | 稗 | 大豆 | 金 | 糠 | 対象者数 | 実施年月 |
1 | 鶴蔵 | 百姓 | 8石 | 1石5斗 | 8両 | 51名 | 天保7年(1836)3月より | ||
2 | 喜右衛門 | 百姓 | 1石 | 1石3斗5升 | 5両 | 49名 | 天保7年(1836)3月より | ||
3 | 孫兵衛 | 百姓 | 1両2分 | 15俵 | 49名 | 天保7年(1836)3月より | |||
4 | 勝五郎 | 百姓 | 2石7斗 | 2分 | 17俵 | 49名 | 天保7年(1836)3月より | ||
5 | 磯右衛門 | 百姓 | 1石 | 1両2朱 | 38名 | 天保7年(1836)3月より | |||
6 | 佐右衛門 | 百姓 | 1石 | 1両2朱 | 38名 | 天保7年(1836)3月より | |||
7 | 林右衛門 | 百姓 | 2分2朱 | 5名 | 天保7年(1836)3月より | ||||
8 | 清蔵 | 百姓 | 2分2朱 | 5名 | 天保7年(1836)3月より | ||||
9 | 平五郎 | 百姓 | 2斗5升 | 2斗5升 | 5名 | 天保8年(1837)5月中 | |||
10 | 源左衛門 | 百姓 | 7斗5升 | 15名 | 天保8年(1837)5月中 | ||||
11 | 兵右衛門 | 百姓 | 7斗5升 | 15名 | 天保8年(1837)5月中 | ||||
12 | 惣兵衛 | 百姓 | 5斗 | 10名 | 天保8年(1837)5月中 | ||||
13 | 伊兵衛 | 百姓 | 5斗 | 10名 | 天保8年(1837)5月中 | ||||
14 | 佐右衛門 | 百姓 | 1石 | 20名 | 天保8年(1837)5月中 | ||||
15 | 庄次郎 | 百姓 | 5斗 | 天保8年(1837)5月中 | |||||
16 | 弥兵衛 | 百姓 | 5斗 | 10名 | 天保8年(1837)5月中 | ||||
17 | 金右衛門 | 百姓 | 1石5斗 | 15名 | 天保8年(1837)5月中 | ||||
天保9年正月「天保四年違作・同七申年稀之凶作 貧民江救合力差出候奇特人名前御取締御出役方へ差上候控」(小川家文書)、松沢裕作『明治地方自治体制の起源』p.160の表をもとに作成。 |
以上のように、百姓間の階層分化が進んだ天保飢饉時の困窮者救済では、第二の幕府からの夫食拝借や第三の村内富裕者による救済に示されるとおり、村が重要な役割を果たしていたことがわかる。とくに第三の方法は、明和七年(一七七〇)に、当時の名主小川弥次郎が導入を試みたものであるが、このときは負担増加を嫌う一部百姓の反発を招いて村方騒動となり、容易に実現しなかった。しかし、この騒動は、村が困窮者救済に取り組んでいくきっかけとなり、天保飢饉という過酷な状況のなか、その取り組みが実現することになったのである。百姓間の階層分化、貧富の差の拡大という動向に対して村は、富裕者に救済をうながし、引き出すことによって、困窮者の暮らしを支えた。そして、名主として、こうした村の役割を主導したのは、かつて、村内で開発人として特別な地位にあった小川家であった。