糠の確保をめぐって

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すでに述べたように、一八世紀中頃以降における武蔵野の村々での農業生産は、作物の雑穀類を売って、肥料の糠を買うというサイクルの中で営まれていた。そのため、糠をいかに安価で、安定的に確保するかということは、村々にくらす百姓にとって大きな関心事であり、糠値段の高騰によってその確保が妨げられた際には、幕府に訴願して、問題を解決しようとした。
 多摩郡の村がかかわった大規模なものでは、寛政二年(一七九〇)と安政六年(一八五九)の訴願が確認できる。とくに前者では、小川村名主の小川弥四郎と野口村(現東村山市)名主勘兵衛が多摩郡二五か村の惣代となり、幕府の勘定奉行所に糠の値下げを求め出訴した。なお、訴えの概要は、本節2において、すでに述べたとおりである。
 百姓の間に貧富の差が広がった幕末期・近代初頭には、糠を買えない困窮者たちのため、村が糠の融通に取り組むようになる。慶応四(明治元)~明治二年(一八六八~六九)に実施された糠融通をみると、村が熊右衛門や鶴蔵、勝五郎、元右衛門といった富裕者つまり豪農にはたらきかけて糠を供出させ、これを村(とくに名主の小川弥次郎)から困窮者たちに、通常よりも安価・低利で貸し付けるというものであったようである。図3-4は、このときに作成された帳面の表紙であるが、線で囲んだ部分には、「熊右衛門」・「つる蔵(=鶴茂)」・「勝五郎」・「元右衛門」の名前が記されている。この糠融通も、村による困窮者救済の取り組みの一つといえる。

図3-4 明治2年9月「糠貸渡俵数名前取調帳」
(小川家文書)

 しかし、当然ながら、こうした糠融通は、糠値段の高騰という問題を抜本的に解決するものではなかった。そこで注目されるのは、田無村(現西東京市)の下田半兵衛と上保谷村(同)の久五郎(きゅうごろう)による尾州糠移入計画である。安政二年九月、半兵衛と久五郎は、鷹場御用を勤めていることをきっかけとして、尾張藩勘定役所につぎのような趣旨の願書を差し出した。
 すなわち、近頃、糠の値段が高騰し、村々は困っているので、名古屋の問屋から江戸に糠を運び、これを江戸の問屋を介さずに直接買い入れたい。そうして尾張藩鷹場の村々へ売りさばけば、糠の値段は安く抑えられ、村々の助けにもなるはずである。ついては、尾州糠の直接買入を江戸の問屋から妨害されぬよう保護してほしい。その代わりに、糠一〇〇俵につき、一年に銀一五匁ずつを上納するというものであった。
 ここから、半兵衛らは、尾張藩の保護のもと、江戸の糠問屋を排除し、産地の糠問屋からの直接仕入れによって、より安価な糠を、鷹場村々の百姓に、独占的に販売しようとしていたことがわかる。すなわち、彼らの利益追求のための商業活動が、安価な糠を供給し、百姓が安定的に農業生産を行えるようになるというのである。この計画には、それまでのように領主である幕府や村ではなく、半平衛たちのような豪農の活動が、百姓の農業生産、ひいては暮らしを支えていくという新たな方向性が示されているが、それは、武蔵野の村々の百姓が彼らの強い影響下に置かれることを意味した。
 半兵衛らの計画は、尾州から運ぶ糠荷物の水揚場所や運上銀額などの調整・変更をへて、翌安政三年から同五年(一八五六~五八)にかけて実現した。この間、毎年一〇〇〇俵ずつの糠が移入されたことが確認できるが、いつまで糠移入が続けられたのか、また半兵衛らのねらいが、どの程度実現したのかなどは明らかにしえない。しかし、半兵衛らのような豪農の活動が、村々に大きな影響を与えることは確かであり、次節以下では、経済にとどまらない文化や政治の諸側面における彼らの活動と、村々の変化のようすが述べられる。