手習塾の存在を確認することは、非常に困難である。その大きな要因は、所在を確認できる文書史料が乏しいことである。現在の小平市域では、師匠側の史料としては、小川村の加藤文右衛門や小川新田の吉田家の門人帳が確認できる。一方、生徒側の史料としては、往来物などのテキストが主となる。人別帳などの公文書に記される場合も稀にあるが、幸運にも文字に残されたものだけでは、地域に存在した手習師匠や手習塾を総体的に把握することは困難である。
これまで手習塾の全体像を把握するために利用されてきた資料には、東京府編『開学明細調(かいがくめいさいしらべ)』と文部省編『日本教育史資料』がある。前者は、明治五・六年(一八七二・七三)に東京府によって行われた、当時存在した私立学校・私塾・家塾の調査成果で、塾主の氏名・住所・身分、塾名・開業年・教員・学科・生徒人数などを知ることができる。後者は、江戸時代および維新期の教育状況を示す膨大な史料や調査成果を整理したもので、藩校・郷学のほか、全国の手習塾についての基礎情報を知ることができる。この資料には、明治初期における全国で約一万五〇〇〇の手習塾と一五〇〇の私塾が書き上げられている。ただ、地域によって調査漏れや情報濃淡があり、実際には約七万五〇〇〇の手習塾と約六五〇〇の私塾が存在していたとも推算されている。
しかし、前者では小平市域がまだ神奈川県管轄であったため、後者では調査漏れのため、これらの資料から手習塾の存在をうかがい知ることはできない。また、大正期に全国的な古老の聞き取り調査を行った乙竹岩造『日本庶民教育史』があるが、これも調査が行われていないためか、小平市域に関する記述はない。
このようななかで、近年注目されているのが、筆子塚(ふでこづか)と呼ばれる手習師匠の墓碑である。筆子塚とは、手習塾の生徒が師匠のために資金を出し合って建立した墓碑である。近世の手習塾では、師弟関係は親子同様に親密なものとなり、師匠は地域住民から敬意を払われていた。生徒は手習いの指導だけでなく、生活態度から礼儀作法にいたるまでの指導を受け、師弟関係は終生のものとなっていた。その師匠の死に際して、生徒らの敬意のかたちとして顕したものが筆子塚である。小川村の手習師匠である立川家の筆子塚には、「筆子喜捨浄財(ふでこきしゃじょうざい)」(筆子の寄付)によって建立したことが刻まれている。また、のちに詳しく述べるが、小平市域に所在する筆子塚には、多くの筆子の名が刻まれているものもあり、師匠のほとんどが筆子から慕われていたことがわかる。
図3-5 筆子塚(海岸寺)
墓碑のほか、使い古した筆を納めた筆塚(ふでづか)、師匠の還暦などに建立された寿徳碑(じゅとくひ)、功績を刻んだ顕彰碑のほか、学問の神を祀った天満宮祠(てんまんぐうし)や灯籠など多岐にわたった。さきの『小平町誌』では、市内に所在する五基の筆子塚等について紹介がなされている。
これら筆子塚や顕彰碑などの金石文(きんせきぶん)は、文書史料としてほとんど残らない地域教育について、大変に有効な資料であるといえる。一方で、開発や区画整備などによって墓地の整備が行われ、都市部では筆子塚の確認も困難となりはじめており、早急な悉皆(しっかい)調査の必要性も唱えられている。
小平市域では、九基の筆子塚等が確認できる。一般的には、「寺子屋」という名称が普及しており、そこで学んだ生徒は「寺子」と認識されている。しかし、「寺子」という呼称は西日本で多く、東日本では「筆子」という呼称が一般的である。小平市域の筆子塚には「筆子」「筆子中(ふでこちゅう)」「筆学社中(ひつがくしゃちゅう)」、門人帳には「筆弟(ひってい)」とあることから、ここでは師匠と筆子という用語を使用することとする。