多様な師匠

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これら文書史料や金石文などから判明する小平市域の手習師匠は、表3-9の通りとなる。ここでは、村ごとに手習塾について概観しておく。
表3-9 小平市域手習師匠一覧
村名氏名没年備考
小川村立川勇次郎天保4年11月上旬享年78歳
小川村立川幸七安政3年享年78歳、勇次郎の子
小川村立川雄右衛門文久2年享年55歳、幸七の子
小川村青木伊三郎文久2年8月25日享年73歳/立川家の手習塾を引き継ぐ/加藤家に設置
小川村青木徳左衛門伊三郎の子
小川村加藤文右衛門慶応3年7月25日享年63歳/称・雪遊、号・野月庵藤撰
小川村加藤新蔵文右衛門の子
小川新田宮崎采女正
小川新田宮崎家
小川新田吉田家天保2年以前~同10年の入門者
野中新田岩淵尊輝
野中新田高橋定右衛門明治3年2月13日明治21年建立
野中新田高橋家
上鈴木村荒畑伊左衛門
廻り田新田小川氏前□木憲斎の句あり
蓮室妙臺信女天保5年正月4日
憲済道徴信士天保3年12月□日
法山妙医信士
廻り田新田茶山当時28才、権三郎地借、女房のふ28才・娘さた6才とも。
森田(蔦氏)

 小川村では、立川家の勇次郎、幸七、雄右衛門の三代にわたって手習塾が開設されている。天保四年(一八三三)に勇次郎が死去した際に建立された筆子塚には、一六〇名余りの筆子が資金を出し合ったことが刻まれており、その段階で少なくとも一六〇名以上の筆子を輩出していたことがわかる。勇次郎は天保四年に七八歳で、幸七は安政三年(一八五六)に七八歳で、雄右衛門は文久二年(一八六二)に五五歳で没している。
 小川村の名主であった小川家に残されている加藤文右衛門の門人帳には、「勇右衛門殿より譲られる」とあることから、この立川家の手習塾を引き継いだのが、同じ小川村に居住する加藤文右衛門であったと判明する。また、小川寺にある明治九年(一八七六)建立の「青木加藤両先生碑」には、加藤文右衛門は青木伊三郎から塾を引き継いだと刻まれており、小川村内で立川雄右衛門→青木伊三郎→加藤文右衛門と継承されていることがわかる。一方、伊三郎は雄右衛門と同じ文久二年の八月に没しており、実質的に立川家から加藤文右衛門が引き継いだといえる。文右衛門が慶応三年(一八六七)七月に死去すると、息子の新蔵が塾を継承したことも顕彰碑に刻まれている。
 この手習塾が立川家三代から青木伊三郎、加藤家二代へと継承されたこと、門弟帳が名主の小川家に所蔵されていることから、小川村のなかで公的な位置付けを与えられていたとも考えられる。
 顕彰碑によると、青木伊三郎は書・算に通じており、飽きることなく子弟を教育したことから、遠近より教えを請う者が多く集まったという。また、加藤文右衛門も数学を志し、伊三郎とは師友の仲であった。江戸に遊学し、帰郷後に約二〇〇名の子弟を教授している。その傍らで俳諧も好み、野月庵藤撰と号し、こちらでも一〇〇名をくだらない門人がいたという。このように、手習いだけでなく、算学や俳諧などにも長けた師匠が存在し、手習塾でも教えられていたと考えられる。
 加藤文右衛門が引き継いだ手習塾は加藤宅に設置されたようで、「筆弟覚(ひっていおぼえ)」には文久二年(一八六二)一一月の始業から慶応三年三月一〇日に入門した者まで、五〇名の名が記されている(後掲表3-11)。個々の筆子の出身村は記されていないが、表紙に「小川村 筆弟覚」とあることから、ほとんどが小川村の村民子弟であったと考えられる。筆子のほとんどは正月から三月の間に入門しており、毎年五名から七名が新たに加わっている。慶応三年のみ一四名が入門しているが、理由は不明である。

図3-6 「筆弟覚」
明治33年1月(小川家文書)

 明治初年に協同学舎(きょうどうがくしゃ)が設置された妙法寺においても手習塾が開設されたといわれているが、その存在を示す資料は確認できない。
 小川新田では、熊野宮の神官である宮崎家で代々手習塾が開設されている。二代の宮崎采女正からはじめられたといわれており、その後は代々手習塾での教育が行われ、明治の新余学校(しんよがっこう)へと移行した。采女正は享保・元文年間(一七一六~四一)の開発期に活躍した人物であったため、この宮崎家の手習塾が小平地域では最も古いものであったと考えられる。
 野中新田の手習塾は、善左衛門組の岩淵家と、与右衛門組の名主高橋定右衛門家で開設されていたことが筆子塚から判明する。高橋家では、文化四年(一八〇七)没の定右衛門、嘉永元年(一八五四)没の定右衛門忠蔵、明治三年(一八七〇)没の定右衛門勝蔵と、三代にわたって教授が行われていた。とくに明治三年に没した定右衛門は、御門訴事件(ごもんそじけん)を主導した人物として有名である(口絵20)。岩淵家の手習塾については、岩淵尊蔵の筆子塚がある。
 鈴木新田では、組頭役を勤めていた荒畑家で手習塾が開設されていたといわれている。文化・文政年間(一八〇四~三〇)から明治初年までの間、自宅で近隣の子弟に読み書きを教えており、農閑期に一〇名程度の筆子が在籍していたという。
 廻り田新田では、海岸寺に小川家の筆子塚が存在する。この筆子塚には男性二名・女性一名の戒名が刻まれており、正確には誰に対しての筆子塚かは不明である。しかし、憲斎なる人物の辞世の句が刻まれていることからも、天保五年正月に没した乙右衛門が手習師匠であったと考えられる。
 また、廻り田新田の人別帳には、茶山なる人物が手習師匠として明記されている。当時は二八歳で、権三郎地借、妻のふと娘さたの三人家族であったことがわかる。詳細は不明であるが、専業の手習師匠であったと考えられる。
 これら判明している手習塾・手習師匠は、筆子塚等や文字に残されたもののみであり、実際にはこれ以上の手習塾・手習師匠が存在していたといってよい。