小川村では、手習師匠の青木伊三郎は「能く書数に通じ」ており、同じく加藤文右衛門は「数学を志し」ていたことが顕彰碑に刻まれている。青木・加藤の手習塾では、手習いのほかに算学を教授していたと考えてよかろう。
小川新田の吉田家には、天保年間(一八三〇~四四)の「算学入門帳」がある。吉田家に残されている往来物には「吉田屋」と書き込みがあることからも、街道沿いで商家を営んでいたと考えられる。天保二年(一八三一)に改めて作成された入門帳で、天保二年以前に入門した者から同一〇年二月に入門した者まで五五名が記述されている。
また、本格的な算学塾としては、小川村の原島景明が開設したものがある。碑文によると、幼少期より算術に関心があり、江戸の算学者・大原利明(おおはらりめい)のもとに遊学し、関流算法を学んだという。本人は算学で名を馳せようとは思っておらず、故郷の小川村でひっそりとくらすことを望んでいた。しかし、そのことを知った近隣住民から請われ、家業の暇に子弟を教授することとなった。そして、遂には小平周辺からも多くの子弟が学びにきたという。景明の教えは丁寧であり、子弟もきちんと理解できたと刻まれている。
原島家には、現在三八冊の算学書が残されている。師である大原利明の著作のほか、関流算法書(せきりゅうさんぽうしょ)があり、自身の学習とともに、子弟への教授にも使用されたと考えられる。
これらの手習塾や算学塾では、一通りの手習いを終えた一〇~一三歳以上の者たちに対して、商売や日常生活で必要な程度の算学を中心に、なかには高度な和算までを教授していたと考えられる。小平市域では、青梅街道などの街道沿いに商家が多く存在しており、多くの人々が日常生活を営む上で算学を必要としていたことから、実践的な算術が教授されていたといえる。
図3-8 原島家所蔵の算学書(原島家古書)
一方、算学とともに地域社会で広く学ばれた学問として、儒学(じゅがく)がある。一般的に、儒学は治者の学問と考えられているが、民衆の間にも大いに広まっていた。近世後期には医学や博物学など多くの学問が展開し、明治になると欧米の制度や思想が移入された。これらを受け入れる基盤となったのが儒学であり、儒学で培(つちか)った教養を基礎として物事を理解していたのである。儒学は全国各地のあらゆる階層の人びとに、精神的支柱として、倫理的指針として受容された。
小平地域では、江戸や京・大坂などの儒学を専門的に教授するような私塾は存在せず、手習塾において手習いから儒学素養までを扱っていたと考えられる。これは、手習塾の普及とともに、地域住民の学習要求が高まり、それに応えることのできる能力を持った人物が地域社会のなかに複数存在していたことを背景としている。
小平地域の村役人家に残された蔵書をみると、必ずといってよいほど儒学書が含まれている(「漢籍之部」)。その儒学書をみると、『論語(ろんご)』・『大学』・『中庸』・『孟子(もうし)』の四書、『易経(えききょう)』・『書経(しょきょう)』・『詩経(しきょう)』・『礼記(らいき)』・『春秋』の五経のうちから構成されている。また、これらに『周礼(しゅうらい)』・『儀礼(ぎらい)』・『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』・『春秋公羊伝(しゅんじゅうくようでん)』・『春秋穀梁伝(しゅんじゅうこくりょうでん)』『爾雅(じが)』を加えた十三経に含まれるものもみられる。このように、儒学の基本となる書物が他地域と同じように小平市域でも確認でき、儒学の普及をみることができる。
儒学学習の意義は、儒学書に記されている倫理的・政治道徳的価値観が人間を培うものと把握され、儒学学習を通して獲得した語彙、抽象的概念の駆使、それに基づく論理的思考などが、地域指導者層としての資質形成のほか、さまざまな知を受容する基盤として重要な役割を担ったことである。
では、手習塾や私塾でしか儒学を学ぶことはできなかったのであろうか。蔵書のなかの儒学書のうち、書名に「経典余師」とあるものが多数存在する。これは、天明六年(一七八六)に刊行された渓百年(たにひゃくねん)『経典余師(けいてんよし)』で、四書に続き、孝経、小学、詩経、孫子、易経、近思録(きんしろく)などの余師も出版された。大坂の書肆(本屋)から開版されると、直ちに全国に広まったのである。
図3-7 『経典余師 論語』(當麻家古書)
初めて儒学書を読む人にとっても平仮名で読みやすく、漢文についての丁寧な注釈を記していることから、師匠に乏しい地域においても独りで学習することが可能となった。渓百年の著作ではない類似本も含め、明治にいたるまで多くの版が重ねられた。庶民だけでなく、幕臣など武士階級にも流行し、寛政改革下の学問奨励のなかで大いに重宝されたという。このように、さまざまな手段を通じて、村役人層を中心に、多様な儒学学習が行われていたと考えられる。
これら日常生活に必要な筆道・算学以外に、和歌・俳諧など教養文化も教授されていた。手習本の表紙見返しや末尾に詠句・詩歌が記されていることからも、小平市域で盛んに行われていた和歌・俳諧が手習塾でも教授されていたことを示しているといえよう。
小川新田の吉田家には、慶応三年(一八六七)七月七日付の手本が残されており、次の二首が記されている。
幾秋も 絶ぬ契りや 七夕の まつにかひある 今宵なるらん
七夕の 絶せぬ秋は 白露の 玉の緒永き ちきりなりけり
図3-9 「(手本)」慶応3年7月(吉田家文書)
前者は、『新拾遺和歌集(しんしゅういわかしゅう)』巻第四の秋歌に収載されている、前関白左大臣近衛道嗣(このえみちつぐ)の「幾秋も 絶えぬ契や 七夕の 待つにかひある ひとよなるらむ」とほぼ同一である。七月七日に作成されたとあるように、両方とも七夕を詠んだ詩歌である。
注目されるのは、多くの手習本と同じように、縦帳の形態で、一文字ずつは大きく、文字を覚える手本と同じような記され方をしている。また、筆跡は手習本らしく奇麗で整った字体であり、師匠から与えられたものと考えられる。
この手本の使用者である吉田幸次郎は、慶応元年閏五月に仮名遣いの手本が与えられ、翌二年二月に書状用例文・童子教訓書(どうじきょうくんしょ)(部分の写し)を習っている段階であることからも、手本の作成者とは考えにくい。
七夕に限ったもので、恒常的な教養文化の教授があったことを示すものではないが、学習の一環として、教養文化が教授されていたことは重要である。江戸時代の教育・学習が地域で生活していく上で必要な知識を身につけることを目的にしていたと考えると、このような教養文化も日常の交際などで必要なものと認識されていたということになる。
小平市域では事例数の制限はあるが、多様な教養を身につけた師匠による手習塾が展開しており、学ぶ側の多様な要求に応えることが可能な教育態勢が確立していたといってよいであろう。
多摩地域は江戸近郊に位置していたため、儒学、算学、医学など諸学問、書道や俳諧、武術などの諸芸について、江戸や地方都市の師匠のもとへ遊学する者も多数存在した。また、多摩地域出身者が遊学ののちに故郷で開塾するほか、他地域出身者が遊歴の途中や請われて開塾する場合もあった。各地を結ぶ街道近くに位置することから、多くの文人墨客が訪れる地でもあった。そのため、江戸文人の門人を多数輩出することともなり、近世後期以降、文人墨客を経済的に支える存在として多摩地域が位置付いていたのである。地域住民は、江戸の影響を一方的に受容するだけの客観的存在ではなく、積極的に彼らを利用していたといってよいであろう。