まだ義務教育がなかった近世は、現在のような学区も存在しなかった。では、小平市域の手習塾への入門圏はどのようになっていたのであろうか。ここでは簡単に、入門者の出身地が判明するものを取り上げてみることとする。
まず、小川村の加藤家の手習塾をみると、筆子のほとんどが小川村の者と考えられる。顕彰碑をみても、小川村と小川新田の者たちがほとんどである。つまり、加藤家の手習塾は、小川村および小川新田の子弟を対象としたものであったことがわかる。
野中新田の手習塾をみると、岩淵尊蔵の筆子塚からは、野中新田、大沼田新田、鈴木新田という近隣地域から入門していたことがわかる。一方、高橋定右衛門家の筆子塚には、野中新田善左衛門組、野中新田与右衛門組、大沼田新田、柳窪新田、高木村(現東大和市)、大岱村(現東村山市)、所沢宿、入曾村、神山村(現東久留米市)の筆子名が刻まれており、比較的広範囲から筆子が通っていたことがわかる。
また、小川新田の吉田家の算学塾では、小川新田や小川村のほか、鈴木新田、野中新田、大沼田新田、榎戸新田からも多くの入門者があったことがわかる。
ただ、野中新田与右衛門組名主の高橋家の筆子の出身村は、野中新田における奉公人の出身村と同じ傾向を示しており、さらなる検討が必要である。限られた事例で十分な考察はできないが、小平地域を一つの範囲として、村域をこえた入門圏が確認できる。これは、基本的には近隣の手習塾に入門しつつも、血縁関係や教育内容などを考慮し、筆子側による選択が行われた結果といえるであろう。つまり、基本的な学習課程は同一化の傾向をみせつつ、それ以外の教育内容や師匠の特性、開設時間などの多様性を持っていたことのあらわれといえる。
近世に展開した手習塾は、近代の学校制度のもとでは、小学校へ組み込まれたもののほか、漢学や算学に特化したり、夜間や農閑期のみに開設するなどして継続された塾も多かった。これらの塾の存在は、一年を通して昼間に開設され、統一的なカリキュラムのもとで授業が行われた小学校に対し、諸事情により入学できない者、特定の学習を望む者などの要求を補完する役割を担うこととなったのである。