この『村名』は、版本として出版・流通していたものではなく、師匠が各々の地域の実態を考慮して独自に作成したものであり、師匠によって列記された村名の範囲が異なる。地域で生活するための生活圏の村名を記したもので、地域特有の地域観を示すものである。
図3-10 「村名大有増附」
嘉永5年10月(吉田家文書)
一例として、小川新田の吉田家に残された『村名』から、当時の地域認識についてみることとする。吉田家には吉田鶴松が使用した天保五年(一八三四)のもの、吉田はつが使用した嘉永五年(一八五二)のもの、年月日未詳の三点の計五点が残されている。収載されている村名に若干の違いはあるものの、範囲はほぼ同一といってよい。
地理的広がりは、同心円でも、国郡制(こくぐんせい)や支配領域で区切られたものでもなく、当時の生活に密着した有機的な範囲といえる。東は江戸小石川から内藤新宿辺り、北は埼玉県南部を中心に川越辺りまで、南は多摩川周辺地域、西は駒木野(現八王子市)辺りまでとなっている。
二〇〇以上の村名が列記されているが、小平地域を中心にすると、圧倒的に西方の地名が多いことがわかる。とくに、多摩郡、現在の八王子市や町田市、立川市周辺の村名が詳細に列記されている。
この範囲は、八王子を中心とした養蚕・生糸の流通網とほぼ一致しているのである。また、列記された地名の順番も同心円的に広がっていくのではなく、街道や多摩川など流通経路に沿ったかたちで記述されていることが読み取れる。つまり、生活圏・商業圏としての地理的範囲を、交通・流通網にあわせて学んでいくという実践的なテキストであったのである。