女子の就学

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小平市域の筆子塚や門弟帳をみると、女子の名前も多く記されていることに気づく。
小川村の加藤文右衛門の手習塾では、移譲された文久二年(一八六二)当初は男子のみであったが、同四年(弘化元年)から女子が増加しはじめている。特に文久四年二月から元治二年八月までの一年半では、一五名の入門者のなかで、女子は一二名にのぼる。門弟帳に記された六年半の総計は五〇名で、うち女子は一九名となっている。しかし、文久四年以降では、総数三六名で、うち女子は一九名と半数を上回っていることがわかる。
表3-11 加藤家門人一覧
入門年月日筆子名
文久2年 11月16日小野教蔵、宮守豊吉、立川与三郎、小川市蔵、清水倉之助、小川弥蔵、竹松弥五郎、立川勝五郎、立川藤五郎
文久3年 2月7日立川丈之助、石野庄吉、清水浅蔵、小川瀧蔵
2月8日小野精蔵
文久4年 2月11日神山もと、神山惣蔵、桑嶋たみ、久家いよ、小川清蔵、竹松栄吉
元治元年 8月28日桑嶋いと、田中せつ
元治2年 正月21日浅見たつ、加藤とき
2月4日馬場うた、清水しん、山崎ひで、木村そめ
8月5日井上そめ
慶応2年 正月21日師岡熊蔵、石野そと
正月26日馬場辰五郎、馬場磯次郎
2月朔日小川はま
2月4日川窪源助、平沼虎吉
慶応3年 正月20日久下幸次郎
正月23日和智惣五郎
正月25日清水吉蔵、□□多蔵
2月11日こんや政五郎、師岡みね、神山けい、小野かね、小野せい、平沢増五郎、師岡平次郎、丹生惣蔵
2月12日師岡みつ
3月10日堤 善吉
「筆弟覚」明治33年1月(小川家文書)より作成。

 この文右衛門の手習塾と関連して、明治九年(一八七六)に建立された「青木加藤両先生之碑」をみると、世話人と門人の名が刻まれているが、五五名全員が男性である。顕彰碑建立には、費用の寄付がともなうので、この場合は女性が名を連ねることはむずかしかったのであろう。
 野中新田の岩淵家の筆子塚にも、複数の女性の名が刻まれている。
 このほか、残された蔵書のなかには、女子用の往来物も含まれており、女子の学習の痕跡を確認することができる。
 一方、小川新田の吉田家に残された算学塾の入門帳をみると、天保二年(一八三一)以前に入門した者から同一〇年二月に入門した者までが五五名で、うち女子は五名のみとなっている。
 このように、近世後期から幕末期には、比較的多くの女子が手習塾で学んでいたことが判明する。それに比して、算学塾など専門的教育を受けていた女子の割合は極端に少ないことがわかる。近世の女子は、手習塾での基礎的な学習のみで修了し、その後は奉公に出るか、家事の手伝いに従事するのが一般的であった。学習を継続する場合でも、塾へ通って学習する者は少なく、家庭内で少しずつ学んでいたと考えられる。