女子の学習課程

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ここで、小川新田の吉田家と宮崎家(熊野宮)における女子の学習課程についてみることとする。
 吉田家文書に残されているはつの往来物を年代順に並べると、表3-12のようになる。吉田家は、「吉田屋」とあることから、商いを行う家であったと考えられる。
表3-12 小川新田吉田家手習往来物一覧
往来物名刊行・書写年代使用者
男用文章写(武家の書状)享和元年吉田伊之助
手本集(武家の書状)享和2年2月吉田猪之助
大日本国尽文化元年正月吉田猪之助
風月用文章吉田伊之助
村名(多摩郡中心、豊嶋郡~甲州、入間郡など)天保5年8月吉田鶴松
村名手本(S-5の続き、武蔵国郡名・国尽と続く)天保5年10月吉田鶴松
証文類(質地証文、土地譲渡証文、往来手形、武家書状)天保6年4月吉田鶴松
真間中山詣天保7年10月
商売往来天保13年10月吉田
御手本(武蔵国郡名目、国尽、借金証文、奉公人請状)天保14年4月吉田久次郎
万証文賑合(質地証文、往来手形、東都方角)天保14年6月吉田磯次郎
(手本)(書状)天保16年国松
算術稽古控吉田邦松
名頭国尽 席書之熟字吉田国松
読本女孝経嘉永3年刊よした初女
御手本(名頭、干支)嘉永4年9月吉田初女
村名大有増附(小川新田から多摩郡)嘉永5年10月吉田屋初女
女庭訓往来嘉永5年刊
女庭訓往来(山城屋平助版)よしだはつ
消息往来(手本)嘉永6年9月吉田氏
女手習状(手本)嘉永7年吉田初女
婚姻女国尽 二(手本)嘉永7年吉田はつ女
商売往来 一(手本)安政2年吉田初女
商売往来 二(手本)安政2年3月吉田初女
商売往来 三(手本)安政2年初女
女消息往来 壱(手本)安政2年8月吉田初女
女消息往来 二(手本)安政2年11月吉田初女
質地証文(質地証文、借金証文、端午之文)安政3年2月吉田初女
角田川往来 下(手本)子年7月吉田はつ女
寿世江戸往来安政2年10月カよしだ屋はつ
御手本(仮名遣)慶応元年閏5月吉田幸治郎
御手本(文章、触書等、童子教訓書)慶応2年2月吉田幸次郎
(手本)(和歌)慶応3年7月吉田幸治郎
世帯道具字尽く(手本)栗原弥之輔
懐中手形証文集・諸人日用書状要文集・改正日要早引両点集文政14年刊
算法稽古覚之帳弘化3年正月
[]官名(村名寄)申年正月
庭訓往来(錦橋堂版)よしだ
(手本)(女性書状)
村名手本
村名手本
吉田家文書より作成。

 残された往来物から吉田はつの学習課程をみると、名頭・干支→村名→消息往来→女手習状(おんなてならいじょう)→婚姻女国尽(こんいんおんなくにづくし)→商売往来→女消息往来→江戸往来→証文類となっている。このほか、使用された年代は不明であるが、ある程度学習が進んだ段階で使用されたと考えられる『読本女孝経(とくほんおんなこうきょう)』(嘉永三年刊)、『女庭訓往来(おんなていきんおうらい)』(嘉永五年刊)、『角田川往来(すみだがわおうらい)』(嘉永五年か)がある。
 先述した廻り田新田斉藤家の手習本にみる学習課程(いろは→名頭→村名・国尽→江戸方角→商売往来→謹身往来(きんしんおうらい)→文章関係)と比較すると、名頭や村名、消息往来までは、広く一般性を持つものであったことがわかる。また、その後の学習課程においても、商売往来や江戸往来は、この地域で男女ともに共通していたことがわかる。
 このことから、消息往来までの基本的な読み書きが終わると、女子を対象として出版された往来物が利用されるようになり、男性とは区別された学習が行われるようになると考えられる。そして、各自の家庭環境や学習要求などを踏まえて、独自のカリキュラムが組まれたといえる。
 女子の学習として珍しいものに、商売往来や証文類(質地証文・借金証文)があげられる。吉田はつの手習本の特色として、吉田家=商家という推測のもと、商家における子弟の学習課程をも示していることが指摘できる。
 宮崎家(熊野宮)に残された往来物をみると、明治初年に宮崎ますが使用したものとして、『婚礼女国尽(こんれいおんなくにづくし)』と『江戸方角』の二点が確認できる。ほかに、『商売往来』や『諸国名産』、『江戸名所往来』、仮名文や女性用の書状用例文がある。これらは、さきにみた吉田家の学習内容と一致している。
 宮崎ますは、父親が開設していた手習塾で学んでいたといってよいであろう。一方、吉田はつの場合は、吉田家で算学塾を開設していたことが史料から判明するが、そこで手習いも教授していたかどうかは不明である。つまり、吉田はつが何処の手習塾で学習したのかは判明していないのである。
 同じ小川新田に居住していたことから、吉田はつも宮崎家の手習塾で学んでいたとも考えられなくはない。しかし、不明な点も多いことから、ここでは小平地域での女子学習には一定の共通性がみられていたという評価のみとしておく。
 また、宮崎家の往来物で注目されるのは、『商売往来』や『江戸方角』といった近世の往来物に、「明治三十六年」「明治三十七年 あい」と記されていることである。つまり、近世の往来物が、明治期においても教育の現場で利用されているということを示している。
 近世の手習塾は、明治以降に近代小学校へと姿を変えるものが多いが、すべてが統合されたのではなかった。経済的事情などで学校へ通学できない多くの児童に対して、その受け皿として私塾が広く存在していたのである。宮崎あいの往来物の存在がこのことを示しているとは必ずしもいえないが、近世に構築された地域教育態勢が、近代の学校教育のなかでも大きな役割を果たしていたことの一端を示しているといえる。