村請制と村役人の資質

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徳川幕府による統一政権が兵農分離のもとで開始されて以降、全国に及ぶ地域支配を貫徹するためには、その初発段階より実質的に村役人の算筆能力が要請されていた。
 近世中期の地方書である田中休愚(たなかきゅうぐ)『民間省要(みんかんせいよう)』(享保六年〈一七二一〉自序)では、名主役について「凡ソ村々の内ニ能キ名主・庄屋と言ハ、先(まず)自身質朴(しつぼく)ニして常ニ産業を守り、内の備へを堅くして更ニ外の物を貪ル心なく、我より下の者を憐ミ、扨(さて)公用を大切にして官ニよくつかへ、所の掟ニぬけめなく、文筆暗からす」と記されている。また、近世後期の地方書(じかたしょ)である大石久敬『地方凡例録(じかたはんれいろく)』(寛政六年〈一七九四〉跋文)では、名主役について「年番にてなく一代限の名主退役の時、其子役儀を勤むべき年齢人品にて、村中存付も宜しければ、総百姓相談の上、直に先名主の悴を願ふもあり、又入札願出たる者にても、其者の持高平日の行状算筆等の儀を役所に於て篤と穿鑿し、弥々勤まるべき者ならば申付」、組頭も「元来五人組の頭分を致し、今は百姓の内算筆致し、人品宜く、高も相応に持ち用立つべき者」を選出するものとある。
 このように、近世を通じて幕府・領主層においては、算筆(さんぴつ)能力を有する人物を村役人に任命すべきであると、一般的に理念として認知されていたのである。村で作成される文書は、村請制による村役人の公証制度にもとづき、基本的には村役人によって作成されるものであった。そのため、村役人には文書作成技術、その基礎である筆算能力は必然であったのである。
 一方、近世後期になると、村の名主跡役願においても、「算筆」(「筆算」とも)能力について明記されるようになる。
 小平市域の早い事例としては、天保一二年(一八四一)の小川村名主跡役願に「筆算(ひっさん)もケ成出来(かなりでき)」と記されている。小川村では、元治二年(一八六五)の小川村名主跡役願でも「筆算もケ成出来」とあり、算筆能力を有することが必須条件となっていたといえよう(小川家文書)。
 このほか、小川新田では明治初年の組頭跡役願に「筆算等(さんぴつとう)も相応ニ出来(そうおうにでき)」「筆算等もケ成出来」、鈴木新田では嘉永三年(一八五〇)の名主見習役願に「筆算等もケ成出来」、万延元年(一八六〇)の組頭跡役願に「筆算等も何成出来」、廻り田新田では弘化三年(一八四六)の名主跡役願に「筆算等もケ成出来」、野中新田では慶応二年(一八六六)の名主後見役願に「可成筆算等も出来」と記されている(野中家文書)。
 このように村役人の跡役願に算筆能力が明記されるのは、小平市域に限ったものではなく、近世後期以降、全国的にみられるものであった。
 注目されるのは、小川村の小川家のような地域で特権的な地位を持つ開発地主の場合でも、形式的なものであったにせよ、小川家と小川村民との間で、村役人の資質が合意事項となっていたことである。天保年間(一八三〇~四四)以降、それまでの地主-小作関係を基盤とする小川家と村民との私的な関係が薄まり、小川家が客観的な位置に立つ名主へと変化したと考えられる(第一章第一節)。つまり、小川家のような家であっても、従来通りの世襲制や特権的地位の確保がむずかしくなり、村民側の要求に応えていくことを余儀なくされたといえよう。それが、名主跡役願のかたちであらわれたと考えられる。
 また、さきにみた一八世紀までの地方書と、一九世紀以降の地域で作成された跡役願との大きな差異として、「相応」や「ケ成出来」という文言が加わっていることがあげられる。これは、単に読み書きができるということにとどまらない算筆能力を、村民が村役人に求めていることを示しており、大きな画期といえる。
 この要因としては、広域化・複雑多様化する地域社会において、安定的に地域運営を行うことが可能な実務能力が不可欠と実感されていたほか、全国的な文字文化の普及や手習塾の隆盛により、多くの村民が読み書きをできるようになって文化的基盤が底上げされたことを受け、それ以上の能力を村役人に求めたということが考えられる。
 つまり、算筆能力とは、単に読み書きができる能力ではなく、文字社会を前提とした安定的な地域運営を担うことのできる総合的な能力であったといえる。広域化・複雑多様化する地域社会の安定的運営には、文字社会を基盤とし、それを駆使できる知の存在が必要であったことを示している。