村役人の資質形成

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村役人側も、新田開発等の由緒を持ちながらも、算筆能力の重要性を自覚していた。そのため、子弟に対して、一般的な教養とともに将来の村役人としての資質形成に向けた教育を行うようになる。
 大沼田新田の當麻家に残された手習本には、文政九年(一八二六)正月五日「差上申手形之事」(武州多摩郡大沼田新田名主弥左衛門→相州箱根御関所御番衆中)が掲載されている。形態は當麻家の手習本でよく見られる折本で、旅人名は「大沼田新田 百姓 何人」とあり、雛形でもあったことがわかる。

図3-13 「(始め之御祝儀)」
文政9年正月(當麻家古書)

 さきにみたように、小川新田の商家であったと考えられる吉田家にも、同様に文書を利用した手習本を確認することができる。
 同種の文書を手本に利用しているが、吉田家の場合は発給され利用する側、當麻家の場合は文書を作成する側という立場の違いがあった。つまり、當麻家では、村役人子弟に対する資質養成を目的に利用していたと考えられるのである。見習役という経験的な資質養成だけでなく、幼少期からの文字教育を基盤とした資質形成がなされていたといえよう。
 全国的にも、一定の基礎的学習を修了した村役人子弟に対しては、儒学の教授のほか、地域の文書を利用した資質養成が行われていたことがわかる。そのため、文書整理の段階では、テキストとして利用されていた文書や編さん物も、見分けがつかないために一般の文書類と同様に分類されてしまったものもあるかもしれない。
 つぎに、実際に村役人による地域運営を支えていたものとして、先例としての村方文書の蓄積(アーカイブズ)についてみておきたい。蓄積された村方文書は必要であるからこそ意図的に残されたのであり、文書群そのものが地域運営を支える先例となっていたのである。そのため、その残り方からは、何が重視されていたのかなど、地域の特徴をみることができる。これら文書群の引き継ぎについては、第二章第九節で詳述されているので、ここでは省略することとする。
 一方、小平市域の村役人家の文書群のなかには、中嶋家の「新田開発一件」、斉藤家の「地方心得綴書(じかたこころえつづりがき)」、「諸願書之写目録(しょがんしょのうつしもくろく)」といった独自に作成した編さん物も多く含まれている。地域の重要課題について、文書を収集して編さん物を作成するといった行為は全国的にみられ、地域運営や訴訟などの際に効果的に活用できるようにされていた。また、文書主義が浸透するなかで蓄積された膨大な文書群に対し、効率的に把握できるように、項目ごとの目録も作成されるようになった。このように、実務経験とともに、先例集となるマニュアルや公用書類の整備が行われるようになったことが大きな特徴である。

図3-14 「諸願書之写目録」
弘化4年1月(斉藤家文書)

 村役人らは、いくら特権的地位を保有していたとしても、地域社会に居住してその役職を担当する限り、自らの地位や「家」を保持するためには、少なからず地域住民から信任・信頼を得なければならなかった。また、幕末維新期の混沌とした時期、地域の破綻を回避しえたのは、地域の安定化に尽力した村役人の活動と、そこに存在した信任・信頼関係であったともいえよう。