近世の俳諧は、季語と切字(一句の中で特別に強く言い切って詠嘆する働きをもつ言葉)の修得という簡単な条件があるのみの発句で、一般大衆の間に浸透した。文政年間(一八一八~三〇)から天保年間(一八三〇~四四)にかけて、「月並発句(つきなみほっく)」という大衆的興行様式が出現・普及し、句合の成績を投句者に知らせる刷物として、半紙刷から数丁綴じたものまで各種の「返草」が作成された。
では、このように雑俳を主とする俳諧文化が広く浸透した近世において、小平市域には俳諧を嗜む人は存在しなかったのであろうか。小平市域に残された文書群をみると、返草など俳諧関係の史料が多くあることがわかる。確かに、俳諧をたしなんだ人びとが存在していたのである。
ここでは、多くの月並発句の返草が残されている廻り田新田の斉藤家を中心に、江戸時代後期から幕末期の小平地域の俳人についてみることとする。
人物が判明している者としては、「玉桜」こと、廻り田新田の名主斉藤忠兵衛がいる。多くの返草に名を連ねていることから、小平市域の俳諧文化の主導的立場にいた一人と考えられる。また、同じく廻り田新田の玉古と号する人物もおり、玉桜と関係のある者と思われる。
表3-13 小平市域の俳人一覧 | ||
村名 | 句集俳人名 | その他 |
小川村 | 芦原、琴松、崎松、花渓、冢緝カ | |
小川新田 | 木犀園(小川杏斎) | |
廻り田新田 | 玉桜(斉藤忠兵衛) | 憲斉 |
鈴木新田 | 黒石、楚月 | 柏屋勘兵衛、定右衛門 |
大沼田新田 | 徳次郎 | 當麻テツ |
そのほかには、小川新田の芦原、琴松、鈴木新田の里石、楚月の名がみえる。特に、大沼田新田の「少年徳次郎」や「十一才むめ女」、小川新田の崎松や花渓など、若者も複数確認できる。返草や句集には老若男女を問わず、多くの俳人が名を連ねていることからも、この地域で広く俳諧文化が浸透していたことがわかる。
一方で、返草や句集には登場しない俳人たちも多く存在していた。寺院の墓地に立ち並ぶ墓石を丁寧にみていくと、辞世の句を刻んだものを目にすることができる。返草に詠句と俳号が掲載されるのは、高評価を得た一部の俳人であり、その後景には多くの無名な俳人たちの存在があったのである。月並発句が盛んに行われていたとはいえ、それに参加できる人は社会的・経済的な面からも限られていたともいえる。
大沼田新田の當麻家に残された香典控帳の中に、文久三年(一八六三)に五三歳で亡くなったテツのものがある。その末尾に、テツの詠んだ二首が記されている。
けふよりも はれて嬉しき 峰の雲 きよき川瀬の 道にこそ入る
見す 下見てくらす 水鳥の いつも気らくな 世渡りそする
見す 下見てくらす 水鳥の いつも気らくな 世渡りそする
日常の生活のなかで感じた、自らの素朴な気持ちを詠んだものといえる。自らの感情を句にして表現することができる能力を、当時の人びとは身につけていたことを伺わせる。この二首は、テツの墓碑に刻まれることとなったとあり、死後もテツという人柄・個性を知らしめる役割を担った。
これらのことからもわかるように、小平市域には残された史料からだけではわからない多くの俳人たちが存在していた。