小平地域において独自の文化圏が形成されていたが、他と隔絶されたものではなかった。斉藤忠兵衛や柏屋勘兵衛ら地域の中核的な文人の交流を通じて、重層的に展開する他地域やより広域な文化圏と結びついていたのである。
さきにみた柏屋勘兵衛は、金橋桜花を訪れた多くの江戸の文人のほか、府中の六所宮(大国魂神社)の神主である猿渡盛章(さわたりもりあき)、府中番場宿の野村六郎右衛門や矢島次郎左衛門、野口村(現東村山市)の千人同心である小島其牛など、多摩地域の文人らとも親交を持っていた。彼は、大田南畝(おおたなんぼ)などの江戸の文人らを媒介にしたネットワークを形成していたのである。
また、小川新田名主の小川杏斎(重好)についてみると、万延元年(一八六〇)六月に杏斎が病で倒れると、その病床に樅園翁賀莚なる人物がいたことが、谷保村(現国立市)の医師本田覚庵の日記に記されている。
この樅園翁賀莚なる人物は、大国魂神社神主の猿渡盛章のことである。本田覚庵の日記には、猿渡盛章が俳諧連へ配布するチラシの制作のため、覚庵らが尽力しているようすなどが記されている。覚庵のもとには、猿渡盛章などの周辺地域の文人のほか、寺門静軒(てらかどせいけん)ら江戸の文人が度々訪れており、近藤勇・佐藤彦五郎など日野・八王子地域の人物とも幅広い親交を持っていた。つまり、小川新田名主の小川杏斎は、本田覚庵を通じたネットワークのなかに存在していたといえる。
斉藤家文書にある返草や句集の特徴として、松原庵星布(まつばらあんせいふ)の月並発句の返草が多いことがあげられる。星布は、享保一七年(一七三二)に八王子市横山宿の榎本家に生れた女流俳人であり、文化一一年(一八一四)に八三歳で没している。初めは白井鳥酔(しらいちょうすい)に学び、糸明窓と号した。後に春秋庵白雄(しゅんじゅうあんしらお)に師事し、二世熊沢鳥酔の跡を継いで、松原庵星布と称した。
多摩地域は、江戸俳壇のうち、伊勢派(八王子の松原庵星布ら)の影響を受けており、「月並発句」では太白堂系、宝雪庵系(服部嵐雪の傍系)、雪中庵系が進出してきていた。
小平文化圏を小域の文化圏とすると、八王子を中心に、多摩郡全域のほか、甲州や武州南部にまで広がる中域文化圏と、数は少ないが、諸国にまで範囲が及ぶ広域文化圏とに分けることができる。松原庵星布の俳諧連への参加は、小平市域では廻り田新田の玉桜のみといってもよく、玉桜が小平文化圏と中域・広域文化圏との一つの結節点となっており、知識・技術導入や情報収集、人物交流などの面で、小平文化圏の発展に大きく寄与していた。
これらの返草に名を連ねている人物の所在地をみると、八王子周辺から甲州道中沿いに展開していることがわかる。この広がりは、養蚕・生糸の流通と同一の展開である。小平市域でも、近世後期以降に養蚕が盛んとなっており、養蚕を通じた商業的ネットワークのなかで、俳諧を通じた交流も広く展開したともいえる。
松原庵星布以外の月並発句でも、八王子を中心とした広い範囲のほか、上野国新田(こうずけのくににった)(現群馬県新田郡)、下野国(しもつけのくに)(現栃木県)、結城(ゆうき)(現茨城県結城市)、箕輪(現群馬県高崎市)、南総(現千葉県)といった関東地域からの投句が確認できる。また、尾張国名古屋(現愛知県名古屋市)、京三条(現京都府京都市)、京都青山(現京都府京都市)といった西日本からの投句も確認できる。このなかには、個人名は判明しないが、「小川 冢緝」という人物も含まれており、小平市域の人物が加わっていたと考えられる。
中域・広域文化圏のなかで活躍していた地域の宗匠的存在を結節点に、全国に及ぶ俳諧文化圏が展開しており、重層的に存在していたことがわかる。また、小平市域には多くの地域文人が存在しており、重なる面を持ちつつも、各々が独自のネットワークを形成していた。そして、それぞれが独自の文化活動を展開しつつも、小平の地域文化という面からすると、結果としてその発展を大きく進めることとなった。