庶民の旅を支えた社会基盤

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近世には多くの人びとが参詣や観光などを目的として旅に出ているが、近世当初より頻繁な庶民の旅がみられたわけではない。現在と異なり、長期にわたる旅には、交通網の整備や治安の安定など様々な困難と課題をともなっていたのである。これらの問題に対しては、幕府や諸藩による法整備、地域の連動した対応などにより、庶民の旅を可能たらしめる社会基盤が整えられていった。
 庶民の旅を可能とする重要な要素に、旅人の保護があげられる。その端緒は、元禄元年(一六八八)、幕府より東海道宿々に触れられた病人・牛馬の扱いに関する法令である。旅中の病人など旅行が困難な者について、逗留している宿村から道中奉行への届け出を義務づけたもので、充分な薬用等の手当てのうえ、国元の親類縁者へも連絡することとしている。病死の場合は、支配代官や領主役人へ届け出ることも指示されている。
 この元禄の法令以前にも、難渋者に対する救済慣行がすでに地域社会で成立しており、その深化のなかで、生類憐れみ政策とかかわりながら、宿村からの半強制的な遺棄の禁止を打ち出し、救済慣行を促進したものであった。
 その後、全国の道中宿々に対して「病人・倒死の者」の扱いについて触れ出されるとともに、その経費の負担方法についても、病人の所持金や国元の親類縁者からの出金がない場合、宿村の入用で負担するという規定が示された。とくに、参詣・巡礼者が死亡した場合には、その所で葬ってほしいという文言の書かれた往来手形を所持している者については、国元に知らせずに死地で埋葬等の処置をすることを許可している。

図3-18 「差上申手形之事(往来手形)」
天保12年(斉藤家文書)

 そして、たびたび触れ出されていた旅人取り扱いの規定を含め、幕府の旅人保護の方策がほぼ固まったのが、明和四年(一七六七)一二月に出された触書である。病人に対して、医師による加療、国元への通知、支配役所と道中奉行への届け出の義務を規定し、死亡した場合には、支配役所への届け出の上、国元の親類縁者と相談し、死地で埋葬するか国もとへ引き渡すかを決めることとした。その経費はこれまで通り、病人・親類縁者からの出金がない場合は、宿村の入用で負担することとされた。
 この明和の法令以降、難渋者が発生した際、往来手形で身元を確認したうえで、宿継ぎ村継ぎによって国もとまで送還する方向で、諸藩の対応が一致していくことになる。また、一八世紀半ば頃から、往来手形が身元証明書として地域社会で重要な意味を持つようになったことを踏まえ、往来手形携帯者が村送りされるようになった。
 これにより、不測の事態が発生した際、適切に対応・処置するシステムが全国規模で構築され、従来よりも安心して庶民が旅に出ることができるようになったのである。