小平市域の事例をみると、宝暦一〇年(一七六〇)正月九日、甥や従弟ら一五名の同行者とともに伊勢参詣へと旅立った小川村の百姓杢右衛門であったが、遠江国浜松宿(現静岡県浜松市)で病に倒れ、甥や従弟とともに一行から別れ、駕籠にて帰路につくこととなった。しかし、駿河国嶋田宿(現静岡県島田市)まで来たところで容態が悪化し、翌日に亡くなってしまったのである。甥と従弟の両名は、早速宿場の問屋や名主のもとを訪れ、支配代官へ届け出てもらうように依頼した。役人の検視を受け、とくに疑わしいこともないので規定通りに処置されるはずであった。しかし、吟味の過程で、付き添っていた甥と従弟が未だ家督を相続してなく、そのために印形を持参していなかったことが問題となったのである。早速小川村へ連絡が行き、両名の親類より、死因に不審な点はないこと、親類三名が当地へ赴いて杢右衛門の亡骸を処置するよう手筈をすることが願いあげられた。おそらく、親類らの願いの通りに運ばれたと考えられる。
また、嘉永二年(一八四九)正月に、伊勢をはじめ西日本・四国を巡る旅に出た鈴木新田の斎藤佐右衛門らの一行は、鳳来寺(ほうらいじ)近くの田代村(現愛知県新城市)において喧嘩騒動に巻き込まれ、三日間の逗留を余儀なくされてしまった。相模国藤沢宿(現神奈川県藤沢市)からきた者と喧嘩騒ぎとなり、宿役人の仲介で解決し、結果として佐右衛門らが金一〇両を払うこととなったのである。傷は三日で平癒したが、仲介人への謝礼金、逗留中の諸雑費などで所持金がなくなってしまうため、一〇両という金額で落着した。
一方、伊勢・熊野・高野山と周った当麻伝兵衛が国元に送った書状をみると、風邪をひいて伊勢参宮が遅れたこと、同行の者たちは達者でいること、途中で別れて行動した者のようす、帰宅の日取りなどを伝えている。内容は、とくに何か出来事があったわけでもなく、皆が達者でいることを知人らに知らせてもらいたいというものである。現在と異なり、頻繁に安否の連絡を取れる状況ではなく、兎にも角にも安否をきちんと伝えることが重要であったことを示している。当時、旅が庶民の楽しみとなった一方で、遠出の旅に出ることがいかに覚悟のいることであったのかを伺うことができよう。