旅をする人びと

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このように小平市域には、多くの旅日記や代参講(だいさんこう)に関する史料が残されており、近世に多くの人びとが旅に出ていたことがわかる。一方で、多くの日数と多額の費用を要することから、資金を出し合う代参講などを除いては、村役人や商家などの限られた層がその中心であったともいえる。
 旅の種類はさまざまであり、御用や商用、江戸での訴訟など公務によるものと、参詣や観光など私用によるものとに分けることができる。また、各地での短期滞在と移動の繰り返しを行うもの(参詣、行商など)と、一定の目的地での長期・短期の滞在を行うもの(御用、商用、訴訟、湯治など)とがある。
 伊勢参詣のルートをみると、東北地方を含め、東日本の町村からの旅は類型化できる。基本的には、在所-江戸-鎌倉・江ノ島-久能山(くのうさん)-掛川-秋葉山-宮-桑名-伊勢-奈良-高野山-大坂-京都-草津-信州善光寺-追分(おいわけ)-在所という、往路は東海道を復路は中山道を通るルートであり、ほぼ東日本で共通している。これに、金比羅宮(こんぴらぐう)に立ち寄るほか、四国遍路、宮島(現広島県)や錦帯橋(現山口県)にまで足を伸ばすルートが追加されることもしばしばあった。
 先述した嘉永二年(一八四九)に西日本・四国を巡った参詣の旅は、正月一〇日から三月二三日まで三か月にも及ぶ行程で、府中宿を出立した段階では二四名、後追いも加えて三三名まで増加している。伊勢までで帰村したのは五名、その後に大坂まで一七名、讃岐国丸亀(現香川県)まで三名、長門国山口(現山口県山口市)まで九名が、各行程に分かれて旅を続けた。鈴木新田の斎藤佐右衛門とともに山口まで足を伸ばした者は、鈴木新田の小川半治郎、田無向台(現西東京市)の田倉岩治郎、岡部長五郎、岡部清治郎、小山平左衛門、田無芝窪の新倉林蔵、境新田(現武蔵野市)の金五郎、保谷新田(現西東京市)の平井滝之助の八名であり、村域を超えた交流を示している。
表3-14 嘉永2年「伊勢讃岐道中日記」宿所一覧
日付宿泊地日付宿泊地
正月10日武蔵国府中16日(丸亀・船)
11日相模国厚木17日(丸亀・船)
12日小田原18日安芸国宮嶋
13日伊豆国三島19日(同所)
14日駿河国由比20日(船上)
15日府中21日讃岐国(佐名木嶋・船)
16日遠江国金谷22日備前国天城
17日23日一日市
18日石打24日播磨国赤穂
19日大野25日姫路
20日三河国門谷26日明石
21日(同所)27日摂津国住吉町
22日新城28日播磨国芥田川
23日御油29日山城国伏見
24日尾張国鳴海3月朔日京都
25日佐屋2日(同所)
26日伊勢国神戸3日(同所)
27日松坂4日近江国草津
28日山田5日鳥井本
29日(同所)6日御影寺
晦日(同所)7日美濃国伏見
2月朔日六軒8日大井
2日かいど9日同所
3日大和国榛原10日信濃国寝覚
4日奈良11日宮越
5日(同所)12日洗馬
6日当摩寺13日青柳
7日吉野14日善光寺
8日学文路15日権堂
9日高野山16日上田
10日学文路17日追分
11日河内国三日市18日上野国松枝(松井田)
12日摂津国大坂19日伊香保
13日(大坂・船)20日新町
14日播磨国(明石・船)21日武蔵国熊谷
15日讃岐国丸亀22日所沢
「伊勢讃岐道中日記」(史料集30、p.48)より作成。

 この斎藤佐右衛門は、弘化三年(一八四六)から明治九年(一八七六)までの三一年間の道中日記を残している。佐右衛門の旅の主な目的は、伊勢参詣とそれに付随した観光のほか、ほぼ毎年行っているものとして成田山新勝寺(現千葉県成田市)への参詣と草津(現群馬県)への湯治がある。一方、当麻伝兵衛による弘化三年(一八四六)の伊勢・金比羅参詣の旅は、大沼田新田における村方騒動での敗北が要因とも考えられる(第二章第七節)。寺社参詣では、講などによって主たる目的地が決まっているが、その道中では著名な寺社だけでなく、地域の鎮守などへも参詣している。また、各地で祈祷を受けている場合もあり、たとえば斉藤家文書の中には、成田山火防守、成田山不動尊御札などが残されている。
 近世後期になると、多くの人びとが伊勢、四国、日光、富士山などに参詣した。近世の諸国参詣は、宗教活動としてだけでなく、地誌や名所記の刊行を背景に、観光という意味合いが大きかったのである。数か月をかけて諸国を巡る旅のなかで、寺社だけではなく、各地の名所や名産を直接見聞きし、多くの情報を収集していたのであり、旅日記にはそれらが記述されたものもある。